てのひら

手形、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
読んで字の如く、掌の形を型どったものである。
地球人の親が生まれた子の成長を比較するために、生後間もない子の手形をとっておくと聞いたことがある。まあ、つまりそんなものを想像して貰えば良い。
そしてその手形がどうしたかと言えば、ここ最近気になるのである。
「……また付いてる」
洗面所の鏡の端っこに小さな乳幼児くらいの手の形がくっきりと残されていた。
いつからそれが付き始めたのか薄々察しはつくものの、最初は全然気付かなかった。
一番初めに気になったのは、水滴のついたグラスを片付けるときだったのを覚えている。
ターレスが飲み残したグラスは、元々氷が入っていたのだろう、机の上に底の丸い形をはっきりと残してくれていた。グラスから滴り落ちた水滴が机の上を濡らし、その周りに小さな水溜りを作ってしまっている。全く、飲んだらそのままにせずにせめて洗い場に持って来てくれれば良いものを……と、脳内で悪態をつきながらグラスを持ち上げた時のことである。
グラスから随分離れた場所も、薄っすらと濡れているのが目に入った。よくよく見てみると小さな手の形に濡れているのである。
最初はターレスが濡れた手で触れたのだと思った。拭きもせず放置するなんて!と更に小さな苛立ちを感じたことも新鮮に蘇ってくる。
しかしこの手形、ターレスが濡れた手で触れたにしては随分小さい。寧ろ私の手形よりも小さい。何だったら幼い子供のような手形なのだった。子供の手形?そんな筈はない。
私とターレスは小規模な宇宙船で放浪生活を続けているが、子供の乗客はいない。確かに小規模ながら複数人で生活出来なくもない宇宙船だ。ただ、残念ながらこの宇宙船の搭乗員は私とターレス二人だけ。つまり、子供の手形など付くはずもないのである。
故に私は恐らく水滴が不思議な形に飛んだだけで、気のせいであろうとグラスを片付け、机の上を拭き取った。
だが、その後で宇宙船の操縦用のサブモニターの隅に小さな手形を見つけたのである。現在使用しない為にモニターを切ってあったのだが、暗い画面の表面に小さな指紋がべったりと二つ付いていた。そう、丁度コントロールパネルの上に乗り、モニターに手をついてつかまり立ちをしたかのような跡が。
そこから私はあちこちで手形を見かけることとなる。
先だって述べた洗面所の鏡や金属製の部屋の扉、そして私のスカウターのディスプレイ部分……。
何故こんなことになっているのか、心当たりが一つだけあった。
それを今から聞いて欲しい。



私とターレスは早急に新しい宇宙船を求めなければならない事態になっていた。
宇宙は時に無慈悲な牙を剥く。私達サイヤ人は自らの頑丈さや戦闘力には自信があるが、それでも真空の宇宙に放り出されればひとたまりもない。蛋白質と水分で構成された肉体は絶対零度の真空下では一瞬のうちに凍りついてしまうだろうし、そもそも酸素がなければ生きられない。
そんな私達が何故宇宙で放浪生活をしているかといえば、偏に自由があるからだ。
私もターレスも縛られることが大嫌いだった。何者かの支配を受けて忠実に生きるなんて堪えられない。私とターレスが出会ったのは偶然だったが、意気投合するのに然程の時間は要らなかった。
二人してフリーザ軍を抜け出し、宇宙船を奪って逃亡する。今思い出してもフリーザ軍の戦闘員に銃口を向けられながらの逃避行は、死ぬか生きるかの綱渡りも同然で最高に楽しかったと思う。
その後の宇宙船の操縦自体は問題無かった。宇宙中を荒らして回るサイヤ人が宇宙船の操縦に梃子摺るわけがない。が、それでも不慮の事故というものは突然発生するものなのだ。
ある日、計器で観測出来なかった磁気嵐に巻き込まれたのだ。小規模の磁気嵐のようだったから暫くしたら収まるだろうと思っていたのに、私達の宇宙船は嵐で進路を外されてしまい、別の恒星の重力圏に入ってしまったのだ。
気付いたときには高重力から抜け出せなくなっており、恒星にすこしずつ近付きつつある宇宙船はその温度をじわじわと上げ始める。地球人に分かりやすく説明するなら、極めて小さな太陽を思い浮かべて貰えばいい。自ら燃え立つ惑星の重力圏に捕まってしまった私達の焦りが分かるだろうか。
勿論、高重力下である惑星ベジータの大気圏を離脱可能なフリーザ軍の宇宙船だからもっと気付くのが早ければ離脱出来たのかもしれない。だけど私達は進路が僅かに外されたことに気が付かなかった。
宇宙では摩擦抵抗が無いだけに、ほんの少しのズレが後々大きなズレに繋がっていく。
進路がおかしと気付いたときにはもう修正不可能な程にズレてしまっていた。
流石に私はもう死ぬんだと思ったよ。
ターレスは……どうだったんだろう。非常用の脱出ポッドみたいなものも積載されている宇宙船だったけど、脱出しても高重力から逃れられなければ結果は同じ。つまりこの高重力下で自由に動けるような規模の推進力がある宇宙船でなければ私達は助からないってことだ。
それでも私はある程度は自由に楽しく暮らしたかな、とそこそこ満足な気分でもあった。誰に支配されるのでもなく私は私の自由の内に死ぬんだ……って。
そんな殊勝なことを考えてたら、ターレスがインターフォンも鳴らさずに部屋の中に入って来たんだ。
、時間がねえ最低限の荷物纏めろ。特に金目のモンをな。それとサイヤ人ってバレねえように尻尾隠せ。マント着けろ」
「……へ?急にどうしたの」
「ここいら巡視してる警備艇と連絡が取れた。流石にこの規模の宇宙船は収艦出来ねえらしいが、脱出ポッドくらいなら拾えるとよ」
「ひろえる……ってことは……助かるの……?」
「さあな。そいつらが俺らを見つけられなかったら仲良く地獄行きだ」
早くしろよ。
最後にその一言だけを残してターレスは部屋を出て行った。後はもう説明しなくても分かると思う。私が今こうして話せているんだから、ターレスと仲良く地獄行きは免れたってわけ。
そんな訳で私とターレスは失ってしまった宇宙船を探していた。
フリーザ軍の宇宙船は高級品だ。流石軍で使っているだけのことはある。
同じような性能のものを探すけれど私とターレスの持ち金だけではどうしても新品に手が届かない。
仕方がないから軍の払い下げや民間の宇宙船を眺めて回った。とりあえず宇宙に出られさえすれば良かった。途中でフリーザ軍の噂を集めて二人で盗むつもりだったのだ。
「……ねえ、ターレス。なんか、真新しいのにゼロが一個少ないのがある……」
私が気付いたのは民間のやや古い型の宇宙船だった。比較的真新しく見えるものの、何故か価格が異様に安い。
販売員を捕まえて事情を聞けば、何故だか三度も返品されているのだと言う。中古品であることもあり、購入してから二十日間は購入金額の八十パーセントで返品を受け付けるのだそうだ。
その都度整備点検をして、テスト飛行もするがなんの問題もなく飛ぶとのこと。ただ、客に返品の理由を問うと皆同じことを言うらしく、曰く。
「出るんだそうで……」
「出る?」
「幽霊が……」
「ハァ?」
販売員の言葉にターレスが馬鹿にしたような声を出す。値下げ交渉するつもりなのだから心象を悪くしないで欲しい。
「あの、中を見ても?」
「どうぞ」
もしかしたら構造上とんでもなく使いにくい宇宙船なのかもしれない……と私は思っていた。それで幽霊とか言いがかりを付けて返品しているのかも……。
そんな私の想像は直ぐに覆される。
船内は綺麗に整備されていて、やはり真新しい。やや型落ちの割に殆ど誰も乗っていないようだ。
部屋も洗面所や収納部分を除いて二つあり、私とターレスで分けられる。そして何より安い。一緒に眺めていたターレスが私の隣で「もうこれでイイんじゃねえの」と小さく言った。
私もそう思っていた。
そこで検分もそこそこに宇宙船から降りて販売員に値切り交渉をしようとした時だった。じっとターレスが宇宙船を見上げているのである。
「……どしたの」
「窓の数が部屋数と合わねえ」
「え……?」
「見てみろ。部屋数に対して窓が少ねえなら気にする必要はねえが……こっちに面してる部屋は二つだったのに窓が三つあるのはおかしいだろ」
言われて私も販売員も宇宙船を見上げた。
ターレスは反対側に回って窓の数を確認した。向こう側も窓が三つあるらしい。
宇宙船に於いて、窓は景色を見ると言うよりも周囲を確認する為のものだったりする。宇宙空間は真っ暗なのだ。そんな景色を日がな眺めている物好きは少ないだろう。
とは言え先程見た部屋に窓は一つしかなかった。倉庫にも一つ。と言うことはこの宇宙船にはまだ部屋がある……?
「調べさせてもらうぞ」
言うなりターレスが宇宙船の中にもう一度入っていく。私も慌ててそれを追いかけた。ついでに販売員もついてきた。
操縦用のメインルームに続く廊下を隔てて左右に部屋が三つと収納用倉庫が一つ。廊下はそこで突き当たっているように見えた。
しかしターレスが壁の縁をじっと見つめる。
「……後から溶接したみたいだな。この先は何がある」
「いえ……買い取ったときには既にこの状態でして……我々も気付きませんでした」
杜撰……とはこの際言えないだろう。何せ私は気付かなかったのだから。
しかし気付いてしまったらこのまま放置もしておけない。販売員の上司との交渉の末、とりあえず購入するのなら壁を壊しても良いと言うことになった。
壊しても返品可、且つ八十パーセントの返金保証の約束を取り付けた上で。
支払いも引き渡しも完璧に済ませ、私とターレスは壁を壊すことにした。戦闘力には自信があるサイヤ人の私達。
どの程度力を込めれば壊れるかは多少手探りであったものの、溶接されていた金属の壁は然程厚くも無く、暫くの後に全て撤去が完了したのである。
さて、隠された部屋は果たしてどんなものだったのか。
ここまで聞かせておいて拍子抜けさせるかもしれないが、埋められていた部屋は小さめの個室とシャワーブースだった。
それこそ誰も使用していないくらい綺麗なもので、私はもっと凄惨な何かが出てくるのではと思っていたので本当に拍子抜けだった。
「……何で……ここ埋めたんだろう……」
「宇宙船でシャワーとか場違いにも程があるからだろ。貴重な水垂れ流せるかよ。大方使えねえから埋めちまったとかそんなとこじゃねえか」
「でもその隣の個室まで埋めることないのに……」
「廊下の構造上仕方なかったんだろ。まあ水が豊富な場所でなら使えるかもしれねえしこのままにしておこうぜ」
既に破壊してしまった金属板を改めて溶接できるわけもなく、私はターレスに同意した。
そして、その数日後に私は机の上の小さな手形を見つけることになる。
気付いてから今に至るまで手形を見なかった日はない。洗面台の鏡の手形など最早見慣れたものと言っても過言ではないかもしれない。
いや、見慣れたというよりは見る頻度が増えたと言うべきだろうか。
最近では私が行こうとする場所に先回りするかのように手形が残されているのである。何となくそのままにしておくのも嫌で、見つけたらその都度拭き取っているのだが、気付けばまた残されておりいたちごっことはこのことなのだろうと思っている。
本当にこの宇宙船は出るのだろうか……タオルを取って指紋を拭き取ろうとしたが、何となくその手形に触れてみてどきっとした。
仄かに温かい……。まるで私がここに来る直前まで触れていたかのような……。
そんなはずはないだろう。何故ならここは既に宇宙空間なのである。
密航者でもいない限りはターレスと私以外の誰もいない筈なのだ。それにこんなに幼い密航者など……。
ターレスにはまだ手形のことを話してはいない。多分気付いていないと思われる。
「……」
話してみようか。話してどうなるというわけでもないけれど、私の精神的負担は減るかもしれない。
よし、話そう。
そう心に決めて踵を返した。その瞬間。
──バンッッ!!
大きな音がして私は体を硬直させる。
確実に真後ろから聞こえた。鏡に何かが当たったようなそんな音が……。
振り返るのは怖かったけれど確認しないのはもっと怖かったから、恐る恐る後ろを向く。
鏡の真ん中には小さな手形、右手と左手が並んで二つ残されていた。丁度、幼児が洗面台に登って両手を突いたような位置に……。


無言の抗議を受けたような気がして、私は結局ターレスに手形の事を言い出せなかった。ターレスは普段通りだったし、やはり気付いていないようだ。
洗面台の小さな両手は拭き消したい衝動に駆られたが、ターレスに気付いてもらうためそのままにすることにした。とは言え、今日はもうその洗面台の部屋に行く気になれない。
そこで夕飯時にターレスにシャワーブースで体を洗っても良いかを聞いてみることにした。
「シャワーは絶対に使わないから。ちゃんとお湯持ち込むから……使っても良い?」
「それなら構わねえが……。何で浴室が嫌なんだよ」
「……あの、掃除……明日、浴室場掃除しようかなって……。私髪が長いから……排水溝楽に掃除したくて……」
「……ふぅん」
我ながらとんでもなく苦しい言い訳だと思った。ターレスも大概納得いかない顔をしている。私が逆の立場でも同じ反応をすると思う。
だが、それでなくとも先程食料貯蔵庫の開閉ハンドルの真下に手形を見つけてしまい、洗面台に行く気力がないのだ。
「まあ好きにしろよ。水の無駄遣いだけはするなよ」
「う、うん。分かってる」
宇宙船に積載できる水の量はそんなに多くない。
燃料と酸素、そして水は宇宙船に最優先で積まなければならないものだ。それを無駄にすることは自分の首を絞めるも同然、それは理解している。
食事を終え、やや熱めに沸かしたお湯を持ってシャワーブースに向かった。
直接廊下に面しているブースは磨りガラスで囲まれており、外から姿をはっきりと確認できるわけではない。流石に廊下で裸になるのは躊躇われたので、中で服を脱いでシャワーのノズルに引っ掛け避難させる。
もし今ターレスが廊下に出てこちらを見れば、中にいるのはフォルムで何となく分かってしまうだろう。
体を見られるわけでもないのに変に気恥ずかしいような気がして、ターレスの気配がないうちに済ませてしまおうと思っていた。
因みに私とターレスの間には何もない。
お互い自由に生きたい私達はお互いを縛ることを良しとしなかった。それに選ぶ自由もあるだろう。ターレスの好みは知らないが、私を選ぶとはあまり思えない。何となくだが、もっと色好みのメスが好きそうに見える。
かくいう私は……。
まあ、ターレスの事は嫌いじゃない。自由で奔放だがいざという時に頼りになるしどちらかと言うと好ましい。
それでも彼の荷物になるのは嫌だ。自由を求めて意気投合してからというもの、ターレスの傍はとても気安くて楽なのだ。この居場所を変に壊したくないというのが本音である。……何だろう、頬が少し熱い。
狭いブースの中に座り込み、持ち込んだお湯に布を浸け、ぎゅっと絞ってから顔に当てる。ああ、少し熱くて気持ちが良い。でもやはり頭からお湯を被るのが一番気持ち良いのだ。宇宙船生活の難点は水浴びが容易に出来ないことだ。
早く次の惑星に到着しないものか。フリーザ軍の噂を集めて宇宙船を盗み出しさえすればこの宇宙船ともお別れできるのに……。
──バァンッ!!
いきなり聞こえた音にびくっとして押し当てていた布から顔を上げた。
本当は上げたくなかったのだが、反射的に視線を上げてしまったのだ。視線はそのまま滑るように音がした方を見つめてしまう。
音がしたのは、磨りガラスの向こう側から……。
「ッ……!」
薄らと透けて見えるのは磨りガラスに押し付けられた小さな両手だった。小さな両手がぴったりとガラスの向こうに押し付けられている。
しかし押し付けられているのは手だけではなかった。
肌色の額が、やはり掌と同じように押し付けられているのである。そしてその真下にはきろりと私を見つめる両目がある。磨りガラス越しなのだから鮮明に見えるはずがない。なのに、磨りガラス越しに得体の知れない幼児と視線を合わせているということがはっきり分かった。
私は大声で叫びながらシャワーブースを飛び出し、ターレスの部屋に駆け込んでいた。
「出た!出たよォ……っ!!」
部屋の主を見止めた瞬間、力が抜けて思わず床にへたり込んでしまう。
「おいおい、なんつー格好で……。出たってなんだ?アレか?幽霊とやらか?」
「目!目が合った!!絶対私のこと見てた!!」
「分かったから少し落ち着け。何処で出た」
「シャワーブースの外だよぉ……。ガラス越しに私見てた!絶対見てた!」
大騒ぎする私を尻目にターレスが扉から廊下を伺う。
「何もいねぇぞ」
「いるってば!絶対いる!!」
「分かった分かった。とりあえず何か着ろ」
ばさりとターレスの服を投げつけられて、私ははたりと我に返った。
見事なまでに全裸で出て来てしまった……。死ぬほど恥ずかしい。
「お、何となく落ち着いたか?部屋戻って着替えるか?」
「ぜぜぜ絶対無理。一人にしないで」
「いや、つっても俺もまだ湯も使ってねえんだが」
「いやいやいや!一日くらい体洗わなくても死なないから大丈夫だって!!そ、それよりほんと無理。もう手形見たくない」
「手形?何の話だ」
私はターレスに投げつけられた服に腕を通しながら、手形の話をかいつまんで聞かせた。無言の抗議なんてもう知るものか。
「信じられなかったら信じなくても良いけど、私今日はここで寝るから」
「んで俺はの部屋で寝るってか?」
「それじゃ意味ないでしょうがッ!!」
ニヤニヤしながら意地悪言うの禁止!!


その夜ターレスは私を部屋に泊めてくれた。
宇宙船用のベッドは非常に狭いはずなのに、場所まで空けてくれて。
距離が近すぎることにどぎまぎして眠れないかと思ったけど、私はとても寝つきが良い方だからそんなことは全然無い……筈だった。
ターレスに抱き込まれるような形で寝そべった私は、人心地についた安心感であっという間に睡魔に襲われていた。うとうととした微睡みの中、ターレスの腕の中は温かいんだなあ……なんて呑気なことを考えていたのだ。そして普段通りであればそのまま朝まで眠っていたことだろう。
しかし真夜中。
ふと寝苦しくなって身が覚めた。やはり誰かが傍にいるせいだろうかと思い、ほんの少しだけ身じろぎをした瞬間である。
──ぺたり。
ふくらはぎのあたりに何かがぴたりと触れた。
それはフラットで小さくサイズの割に重い……いや、考えるまでもない。小さな掌だ。とうとう痕跡を残すのではなく直に触れてきたのだ。
ぴた……ぴた……
定期的に離れては触れつつ、掌が徐々に上に登ってくる。掌以外の感触がないから良く分からないが、どうやらターレスと私の間に存在しているらしい。私に触れていない方の手はターレスの体に触れているのだろう。
しかし這い上がってきている筈なのに掌の感触しかないのはどういうことなのか。四つん這いで這い上ってきているなら足の感覚がある筈ではなかろうか……。
もしかして足は……いや、変なことは考えないに限る。
……ぴた……。
とうとう腕の方まで登ってきた……。私は怖くて存在を確かめることも出来なければ身動きさえ出来なくなっていた。眠った振りをしながらひたすら早く何処かへ行って欲しいと念じ続ける。
何故か掌の感触は腕の辺りで止まってしまった。
重みがなくなったわけではないが、それ以上這い上がってくることもなくなったのだ。理由は全く不明だが、得体の知れない幼児の考えることなど分かろうはずもない。ただ、眠気なんか一切吹き飛んでしまっていたが、このまま早く眠ってしまおうと必死だった。
しかし嫌な緊張感のせいで眠れないままどれだけの時間が経っただろうか。急に掌の感触が何処かへ消えたのである。
人間とは不思議なもので、得体の知れないものを拒んでいたくせに、突如としてそれが存在しなくなると却って不安になるものなのだ。
私も何故自分の腕の上から一瞬にして奇妙な感覚がなくなってしまったのか気になって仕方なくなってしまった。掌の感触が消えて安心するはずなのに……。
確認したい。だけど怖い。
そんな葛藤をしばらく続けた。
部屋の中は静まり返っており、ターレスの微かな寝息しか聞こえてこない。いい気なものだ。
もしかして、本当に消えてしまったのだろうか。
気配に敏感なサイヤ人であるターレスが何の反応も無く眠っているということは、もしかしてもう消えてしまったのかもしれない。
私は一念発起してそっと薄目を開けてみた。
暗い部屋の中、宇宙船の壁が見える。ほんの少し頭を動かして見上げてみたが周囲には何の異変もなさそうだ。
……なんだ何もないじゃないか……もう何処かへ消えてしまったのか……。
一瞬安堵をした私だったが、ふと視線をターレスの方に向けると、薄い掛け布の胸元の部分が不自然なほど盛り上がっている。
丁度子供が潜り込んでいたらそんな風になるような……?
違和感に気付いた私の目の前で、その掛け布を小さな手が内側からゆっくりと捲り上げ始めた。部屋は真っ暗にしてあるのに、捲り上げる白い手は鮮やかに見えている。布の中は影が濃くて見え辛く、同時に見てはいけないとも感じていたので慌てて視線を逸らそうとしたのだが、私の思考は一瞬遅かった。
非常に緩慢に捲り上げられた掛け布の奥、きろりとこちらを覗く目と視線を交わしてしまったのだ。
この直後で私の記憶は途切れている。幼児の顔の印象は全くないのに、視線がぶつかったことだけが脳裏に焼き付いていて、気付けば朝になっていたのだ。
だがその朝、意外なことをターレスが言い出した。曰く、この宇宙船を売るとのこと。
「ど、どしたの急に……。ターレスも幽霊見たの」
「おう……一晩中『ママ、ママ』って胸元べろべろ舐められた」
「……」
返答に困るくらい心当たりがありすぎる。あの時ターレスも起きていたのか……規則的な寝息が聞こえていたと思ったけど、それならば起こすなり助けを求めるなりすれば良かったと今さらながらに思う。
とは言え最寄りの文明圏の惑星に到着するまでは少なく見積もっても二日ほど掛かることが分かった。
ターレスはげんなりしたようだったが、私もかなりがっかりだった。
まだ暫く手形の恐怖に怯えなければならないと思うと憂鬱で仕方がなかった。
しかし幽霊騒ぎはこの夜を境にぱったりと無くなってしまったのである。手形が見つかることもなくなったし、ターレスが真夜中幽霊に苛まれることも無かった。
ただ、ある一点を除いては。
「ママ……ママぁ……」
今夜もそれが始まった。
このまま放置しておくのは拙いだろうと思いながらもそのままにしている。
ターレスには非常に申し訳ないが、多分子供の幽霊が満足すれば出ていくだろうからこの状況に甘えてしまおうと言い訳をして。
手形が見えなくなった当日の深夜、それを訝しんでいた私の部屋にいきなりターレスが入ってきたのだ。
ふらふらと覚束ない足取りだったので、最初は酔っぱらって部屋を間違えたのだと思った。
しかし何だか様子がおかしい。酔っているにしてはお酒の匂いも全然しない。
不思議に思って声を掛けようとした瞬間、寝台の上の私に圧し掛かってきたのだ。今までそんな素振りは一切見せなかったターレスだが、急にそんな気分にでもなってしまったのだろうか。
驚いている私の寝間着をいきなり捲り上げ、胸元にしゃぶりついてくるターレスの強引な仕草。悪く思っていない相手からの行動は私を動揺させた。
しかし漏れ聞こえてくるターレスの声に私の体は戦慄する。
「ママぁ……」
瞬間的に理解した。
磨りガラス越しに私を見つめていたあの子供だと。
手形が付かなくなったのはいなくなったからではない。ターレスの内側に潜んでいたからだったのだ。
物凄く驚いたが、それ以上何かをする気も無いらしく、暫く私の胸を吸って出て行った。翌日ターレスにそれとなく昨夜のことを聞いてみたが何も覚えていないようだった。
そして、そのままずるずると続けている。
さてこの子供が彼の内から出て行かなかったらどうなるのだろう。
内側で成長するのだろうか?
それとも私に甘え続けるだけなのだろうか。
薄昏い楽しみを覚えてしまった私は、しかしもう知らなかったころには戻れないと自覚し始めていた。