迷える子羊は満月の夢を見るか?

神とは、崇高なる精神を比類なき身体に宿した至上のものである。
地上のあらゆる生き物に秀で、それを諭し又は導き、素晴らしき世界へと誘う使命があるのである。
付き従うものには限りなき幸福を、害するものには終焉なき絶望を。
既にその腕を振るえる者は自身しか存在しないという自負とともに、この神は人間だけを憎悪していた。
にも関わらず、今夜も悍ましい行為に耽っている。
下賤な肉体を選んだ代償を支払わされているのかもしれない。
この肉体は神の依り代とするには余りにも低俗すぎる。神として選ばれ生まれた身体ではないのだから。
相棒とでも言うべき別次元の自分には決して言えない秘密の行為。
しかしいつかは知られてしまうだろう。
その時自分はどうするのだろうか。



ザクザクと何者かが、瓦礫を歩く音がした。驚きに漏れそうになる声をぐっと飲み込み身を硬くする。
周囲の人間も同じく固唾を飲んで視線を交わし合っていた。
今日明日訪れるともしれない死の足音……今まさにそれが降りかからんとしているのだろうか。
武装したものが静かに銃を構えるのが見えた。
噂では銃なぞアレには効果がないらしいのだが、その現場を目撃したものがここには存在せず、誇大な噂だけが独り歩きしているのではとの説もある。
噂の真相が確かめられない理由は簡単だ。
現場に居合わせてアレの手から逃げ延びた人間など殆ど存在しないからである。
アレが猛威を振るう瞬間を目撃したものはことごとく命を落としているのだ。そこに例外はまずない。
アレは、そういうものなのだとか。
故に万一この足音の正体がアレなのであれば、ここに集う人間は全て絶命するであろう。誰一人、例えばでさえ例外なく。
張り詰める空気の中、瓦礫を進む音がだんだんと近づいてくる。重苦しくなる空気に、は先に窒息死するのではとさえ思った。
足音の主も痛いくらいに張った空気を悟ったのであろうか。
姿を見せる前に足音が止み、ややの後に。
「……撃つな、撃たないでくれ」
と、弱い声を寄越した。男の声だった。
「私は家族を探している。代表がいるなら会わせてほしい」
一瞬、場の空気が弛緩する。
が、それも僅かな間の事。構えられた銃が下ろされることもなかった。
「先に姿を見せろ。怪しいと思えば即座に撃つ」
代表者が声をかけると、両手を上げた状態で薄汚れたフードを目深に被った人間が姿を現す。
の位置からでは顔は見えなかったが、恐らく代表者からも見えていないだろうと思われた。銃を構えたままで代表者の傍にいた者が、男にゆっくりと寄る。
周りの者も男に照準を定めたままだ。
これはこの集団の取り決めでもあった。
時折このように生存者に出会うこともあり、どうしてもその正体を確認する必要がある。誰か一人はこうして正体不明の者に近づかねばならない。
勿論無視を決め込むという手もある。
この集団だけを守ることを優先するのであれば、正体の分からない新参者などに関わらなければ良いのだ。
しかしこの集団は生存者を取り込んでいくという結論を出した。よって常に誰かが未知との遭遇という危険な役目を負わねばならない。
衆人環視の中、銃口を突き付けられながらも敵か味方か分からない者へ接触しなければならないのだ。
誰もがやりたくない役回りなので、銃を扱える者が交代で行っているらしい。余り詳しくは知らないが。
とにかく、やはり呼吸の許されないような空気の中で未知との遭遇は行われた。
フードの男はほんの少しだけ布を持ち上げ、接触者と視線を交わしたようだ。
ちらりと黒い髪も見えた。東洋人だろうか。
いや、それだけで判断することは出来ないかもしれない。
何故ならは黒髪だったが、東洋の出身ではなかったからだ。
ぼそぼそと言葉を交わす音が響く。
何を言っているのかは分からなかったが、やがて仲間の男が代表の元に戻っていく。フードの男の主張を伝えるために。
嗚呼、まるで伝言ゲームだな。
はその光景を眺めながら思っていたが、他にも同じように感じた者は何人でもいるだろうと思った。
そして話を聞いた代表者はやおら顔を上げると。
「彼は奥さんを諦めきれないらしい。女性たちに会わせてやろうと思う」
ここを仕切っている男の言うことには特に異論はなかった。少なくとも彼は人道的な類の男であったので、彼の判断を疑う気持ちは微塵も湧かなかった。
実のところ、こうして生存者に出会うのは初めてではないのである。
毎度毎度窒息死しそうな程の緊張は生まれるものの、今のところ受け入れた生存者が敵対行動を取った事例は一度もない。
故に今回も用心はしてもいきなり背後から刺されるようなことはないだろうと思えた。
聞いている皆も同じらしく、声を発する者はいない。
しかし彼は続いてこうも言った。
「皆で決めた取り決めを覚えているか?最後の項目だ。万一の話だが忘れないように行動して欲しい」
これには皆、動揺したようだった。
も小さく息を飲んだ。
確かにこの状況であれば可能性は無いこともない。ここの代表者は比較的人格者で細かいタイプだから、この忠告は良かったと思う。
何となく安堵が漂い始めた空気が、また一変してヒリつく。
そんな中、代表者はフードの男を手招きした。
更に動揺が広がる。も例外ではない。
代表者が万が一の話をした。それは微かにでも万が一を考えたからだ。と、言うことは、その万一の確率を下げなくてはならないのではないだろうか。
そんな方法存在するのか?分からない。だけどは反射的に……。
「待って!」
……声を、掛けていた。
周囲の視線が一斉に集まって、心臓がうるさく跳ねる。瞬間的に頬も熱を持った。
「あ、あの……あたしが案内するから……。その、女性は、女性だけで集まっている、し……」
どもりながも言葉を続けるが、周りの視線が非難の視線にさえ感じる。差し出がましいのもでしゃばりも重々承知なのだけれど。
しかし嫌な予感を感じてしまったのだから最後まで口にしなければ後悔する。
彼に何かあればこの集団の生存期間がきっと短くなる。もしかしたらすぐにでも絶えてしまうかもしれない。その時に死んでしまうのなら、今死んだところで大して違いもないだろう。杞憂で済めば更に良い。
の申し出に代表者は多少逡巡の態度を見せたが、やがて無言で頷いた。
彼によって促すように道を譲られた時、は今、降りられない舞台に自ら上がってしまったことを強く自覚する。
「……じゃあ、こっちだから……」
声が上擦りそうになるのを堪え、フードの男の隣をすり抜けた。
そこでは漸く男の顔をフードの隙間から垣間見る。
黒い瞳に黒い髪。やはり東洋人だろうか?そこまで詳しくは見えなかった。険しそうな表情は緊張の表れかも知れない。自分も似たような表情をしているに違いないのだ。
この男は運良くアレの現場に居合わせなかったのか、それとも天文学的な確率で免れたのか……。
どちらにせよ悪運が強かったのだろう。
「……あの、案内するからついてきて」
が促して歩き出すと、男は無言で付いてきた。
トラブルを避けるため、それとなく男女を分けて集まっているのが現状である。
今の時代、弱い者は搾取されやすい。
庇護対象を見張りやすく且つ守りやすくするため、代表者は敢えて女性たちを分けて集めていた。少し離れたところにある廃ビルがその隠れ家だった。
も普段はそこで寝起きしている。強制力があるわけではないが、女性たちは余りそこから出ることはしなかった。
それでも年嵩の女が多く集まると、水面下で居心地の悪い思いをすることも少なくはなく……。何があっても自己責任の覚悟の元で今日は外に出てきていたのである。
も分かっていて行動していたから良いのだ。
そういう意味で今この現状も自己責任の内に入るのだろう。
「……あの、奥さんって……どんな感じの人……?ここ、あんまり若い女の人いないよ……」
「それは…………、……黒髪を、結った……気の強そうな……」
言葉を選んでいるのかあまり伝わってこない説明をされては首を傾げる。
熱心に探す割りには名前なども出てこないのはちょっと妙な感じだ。
妙といえば、は一つ彼について気になっていたことがある。
「ところで気になってたんだけど、貴方の靴……随分綺麗よね……。何処で拾ったの?あたしの靴、もうボロボロだから替えられるものなら替えたいと思ってるんだけど……」
彼が姿を現した時から靴が綺麗なのが気になっていた。彼が履いているのは白いブーツで、かなり綺麗な代物だ。
対しての靴は、あちこちを逃げ回るためにかなり履き潰してしまったため汚れている。
疑問を素直に口にしてみて気づいたのだが、家族を探して放浪しているはずなのにそんなにも綺麗に靴を保てるのだろうか……。
そういえば、彼の体を覆うマントやフードは煤けているのに裾から除く黒い服もやけに綺麗だ。穿き古して色褪せた雰囲気も全くない。まるできちんと洗って毎日替えているかのような……。
「……チッ、鼠を追い詰めると変な部分で敏感になるようだな」
疑惑を深め黙り込むの手首を、マントの下から伸びてきた男の手が掴む。
掴む手は思いの外強い力で、ぼそぼそと喋っていた男からは全く想像が出来なかった。
「痛っ……!ちょっと、何するのよっ……!」
「この際人間の女なら何でも構わないと思っていたのだ。長い黒髪なら尚良いと思っていたが、お前なら丁度いい」
きつく握られた手に更に力が籠った。
「な、何の話してるの……?誘拐?ここには食べ物だって殆ど……」
「黙れ。口を閉じろ。静かにしていれば殺さずにいておいてやる」
フードの下の目が鋭くを睨み付ける。
その表情に先ほど垣間見えた険しさは一つもない。ただ、熱を失った冷たさだけが無表情の内に漂っていた。
僅かに怯んだが言葉を失うと、漸く僅かながらに得心をしたらしい息を吐く。
「そうだ。私の言葉は絶対だと理解しろ。今から移動するが、口を開けるなよ」
移動?
意味も分からぬまま男は掴んだの腕を力任せに引き寄せる。当然何の心づもりも無かったは男の方に倒れそうになるが、それを軽く受け止めて、無遠慮にもの腰に腕を回した。
見ず知らずの男の腕に腰を抱かれた不快感に肌がぞわりと粟立つ。
一体何をする気だ、なんて口にしなくてもこの後の惨劇を容易に想像出来るじゃないか。
口を閉じろと言われたことも忘れて悲鳴を上げようとしたその時、は自分の足が地面から浮いたのを感じた。
「……え、」
吐息に交じって僅かに漏れた声を男は聞き逃してくれたのだろうか。分からないが、男はただ無言で地面を蹴った。
爪先で、軽く蹴っただけだった。
それなのに目の前の地面が物凄い速さで遠ざかっていく。
どうしよう、理解が追い付かない。地面が離れていくということは、地面から離れた足が浮いているわけで、寧ろ自分を抱いている男が浮いているわけで、移動ということはつまり今空間を移動しているわけで。
嗚呼、無理。意味不明。
黙っていれば殺しはしないとこの男は言った。それって逆に声を出したら落とされるということなのかもしれない。黙っていよう。問いかけならばきっと後でも出来るはず。
混乱しているはずなのに、逆に冴えたような脳内ではそんなことを考えていた。



「回りくどいやり方なぞ選ぶべきではなかったな。服が汚れた」
人里離れた土地にひっそりと建てられた真新しい家屋の前で、マントを脱ぎ捨てた男が独りごちる。
地面に降りたということはこの家屋が彼の目的地なのだろうか。質問の権利を有していないは押し黙ったままである。
「後々ゴミ共に逃げられても面倒だから穏便に済ませてやろうと思ったが、次からはゴミを一掃してから探すことにしよう」
ぱんぱんと軽く服を払い、最後にちらりとに一瞥を向ける。
「やけに静かだと思えば口を閉じていろと言ったんだったな。クズにしては聞き分けがよくて何よりだ」
心の底から感心している風の男はを抱えたままで家屋へ入る。
こんなにも完全な形で残っている家屋に入るのはもういつ振りのことだろう。
いつ頃からか空から脅威と猛威が襲うようになり世界は急激に崩壊の一途を辿り始めた。
既に報道の類は機能しなくなっており、生存者がどれだけあるのかすら不明である。は親元を離れて暮らしていたのが災いして、現状天涯孤独の身の上だった。
まだ通信が出来ているうちは良かったがそれもいつしか不可能に。両親の生存確認が全く出来なくなって、諦めた。
だから男が現れたとき、地道に妻を探しているのかと一種の感動すら覚えたというのに……。
「しかし折角見つけた隠れ家を汚されるのは不愉快だな。……面倒だが洗うか。どちらにせよ使うには一度洗わねばならないと思っていた」
不穏な独り言が聞こえてくる。
洗うって何を。いや多分自分の事を言っているのだ。
一人でゾッとしているを抱えたまま、男は左側の部屋に入っていく。
そこは誰がどう見ても明らかにバスルームだった。
更に縮み上がるを洗い場の床におろすと、へたり込む彼女に視線を合わせるように男も屈み込み顔を覗いてくる。
「とりあえずで連れてきたがまあまあだ。これなら使用に問題ないだろう」
凄く失礼な値踏みをされたらしいことは良く良く伝わった。
声を出せないフラストレーションも相まって、その澄ました鼻先に噛み付いてやりたいような衝動に駆られる。
だけど空間を移動したりするなんて、これがアレなのだとしか思えないから、無謀な真似は止めておく。その割には個性的な髪形をした只の人間に見えるけれど。
何故まだ生かされているのかは分からないが、多分碌でもない目的で連れてこられた。使用とか言ってるし。
「汚い格好で部屋を歩き回られると部屋が汚れるからここにいろ。準備が出来たら喋る許可もやろう」
蛇口を捻って浴槽にお湯を溜める準備だけすると男はそのまま出て行った。
ばたんばたんとドアが閉まる音もする。
「……っはぁあ、窒息するかと思った。声出さないって結構な拷問だわ」
深い深い溜息とともに可能な限りの小声を吐き出す。
それにしてもここはお湯まで出るのか。完全な形のお風呂なんて随分久しぶりだ。
世界が荒廃に近づくにつれ、日々のお風呂や食事が如何に贅沢な行為であったかを思い知らされる。いつしかざばざばとお湯の溜まっていく浴槽をそわそわしながら眺めてしまっていた。
しかしそのお湯がたっぷりと浴槽に溜まるころ、不穏な足音が戻ってくる。
ガラッと浴室のドアが開けられて、座り込んでいるを見下ろす冷たい視線。
「おい、その汚い服を脱げ。今すぐ処分する」
「!」
思わず何さらりと言ってんのよ!?と突っ込みそうになった。危ない、ソッコーで死ぬところだった。
「私の言葉は絶対だと言っただろう。さっさとしろ。お前の代わりなぞ幾らでもいるんだ」
「……」
反論の言葉も持たず、行動でそれを示せば死が直結という事態。死んで尊厳を守るという手もあるのだろうが、生憎はそんな殊勝な気持ちには全くなれなかった。
高圧的な態度も、偉ぶった物言いも、著しくの精神を逆撫でしている。少なくともここで何もなく死ぬのは負けのような気がして。
「……」
覚悟を決めて小さく息を吸い込み、勢い良くカットソーを捲った。誰に貰ったのだか拾ったのだか分からなくなっている洋服で、特に愛着などもないはずだったけれど、着ていないだけでこんなにも心許無い気持ちになるものかと愕然とする。
僅かに腰を上げてスカートも脱いだ。
これでどうだと視線をあげる。が、目の前の男は微動だにしない。
何が悲しくて見ず知らずの男の前でストリップなどしなければならないのか。下唇を噛みながら、は下着に手を掛ける。
背中を丸めて出来る限り体を庇い、身に着けていた全ての衣類を浴室の床に置いた。
そうすると、男はその衣類を纏めて拾い上げる。
処分とか言っていたけど、どうするのだろうとは男の挙動を見つめていた。
あれを捨てられてしまったら替えがないのだけれど。それともこの男が替えを用意するのだろうか?
最悪ゴミ箱から拾えばなんとかなるかな。
やはり質問の権利を有していないは、ぼんやりとそんなことを頭に巡らせていた。
しかし次の瞬間。
男の手がぶわ、っと光ったかと思うと、瞬きをしている間にの衣類が手の上からなくなってしまったのである。
「……え、?」
一瞬の出来事で何が起きたのかも分からず、は疑問を声に出してしまっていた。
だが、それに気付くことも出来ない。
今起きた現象がの想像の範疇を大幅に超えていたからだ。
男は埃でも払うかのようにぱんぱんと手を払っている。清々したというような顔をして。今起きたことに疑問を感じているのはただ一人なのだった。
呆気に取られて男を見つめていると、男は無言で腰帯を解き始めた。
するすると衣擦れの音が浴室内に響く。
全て解いてしまうと、グレーの短い前袷を脱ぎ、次いで内側に着ていた黒い上着も脱いでしまった。
男の肌が見えた瞬間、はその一挙一動を眺めてしまっていたことに気付き、慌てて後ろを向く。
何故アンタが脱ぐの!?と大声で突っ込みたかったが、許可が出ていないので飲み込んだ。辛い、喋れないって辛すぎる。そうこうしている間にも衣擦れの音は続いているし、何だったら最終的に衣類を浴室の外に放り出したような音さえ聞こえるし。
見守るなんて絶対に無理だが、真後ろで黙々と裸になられると言うのも怖すぎた。
嗚呼、もうここまで来たら覚悟しなくてはならないだろう。
発声の許可は未だに出ていないが、悲鳴を我慢出来るかどうかは微妙なところだ。
心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。ドッドッ……と打つそれが胸だけではなく体中に伝わってきているかのようだ。
すると不意に、男の腕が伸びてきたのが視界に入った。
「っ、」
ぎく、と肩が震える。唇をぐっと閉じて身構え、心の準備をした。
しかし伸びてきた腕はどうやらシャワーを取っただけらしい。いちいち心臓に悪いから一言声でもかけてはくれないだろうか。緊張で胃に穴が開きそう。
傍ではザァ……と、シャワーがお湯を吐き出している。
嗚呼、こんなにたっぷりと水を浴びれるなんて……ここが一人の空間であれば天国だったろうに。
「お前、名前は」
不意の問い。これは発声の許可だろうか。
分からないから簡潔に答えておくことにした。
「……
長いこと声を出していなかったため、少し声が掠れていた。多分恐怖もあったのだと思う。
の返答を聞いた男は特に何も言わず、ただ溢れるお湯をの頭から浴びせかけた。
「きゃっ……」
まさかいきなり頭からお湯をかけられるなんて思っていなかったから驚いて小さな悲鳴が出た。
拙かったかなと心配したけれど、男はやはり無言のままである。
暫く男はの頭にお湯を掛け続けた後、近くにあった液体石鹸のノズル部分を外してひっくり返す。
べちゃべちゃと冷たい粘液が大量に頭に落ちてくる感覚に鳥肌が立ったが、必死で我慢した。
そして男は、なんとそのままの髪をかき混ぜはじめたのである。
恐らく洗っているつもりなのだろうが、気遣いも何もないため絡み合った髪が引っ張られてとにかく痛い。
「あいたっ……、いた、いたた、痛い……!止めて、自分でするから……!!」
というか、液体石鹸=ボディソープで髪なんか洗われたらギシギシに軋んで絡み合ってしまうに決まっているではないか。
適当にも程がある。っていうかボディソープの隣にシャンプー並んでいるじゃない!ちゃんと見て!!
「それもそうだ。わざわざ私の手を汚すまでもなかったな」
いちいち上から目線の物言いが癪に触る。
だけど、制限を気にせずお湯を使えるなんて有り難いことだ。じっくり時間をかけて髪を洗わせてもらおう。
既に何本も抜けてしまった髪を丁寧に解きながら、流れ続けているシャワーで泡を一度洗い流していく。
「ふー……大分解けたかな……」
平和な時代はそれなりに気を遣って伸ばしていたはずの黒髪は、今や手入れも行き届かなくなっていた。
邪魔であると感じることもしばしばで、惰性でそのままにしてあるが、腕に覚えのあるような人物に出会えたら切ってもらっても良いかもしれないとすら……。
「冷たっ!」
不意にの肩口にべとりと冷たいものが降ってきた。
先程の液体石鹸だ。
男が降らせているのには違いないが、それを今からどうしようというのだ。
……聞かずとも何となく答えが予想出来てしまう。是非とも外れて欲しい予想が。
「ちょ、や、やだ……体も、自分でやるから……」
「生憎、使用するものの洗浄を他人に任せるのは好きではなくてな」
ニヤニヤしながら、べっとりと体に落とされた粘液を男の手が塗り広げ始める。
「ひぅ、んんんんっ……」
肌の上を無遠慮に撫で回される気持ちの悪さに思わず変な声が出てしまった。
独特の粘性がぬるぬると背中を這う。
「やだぁ……っ、触らないで……!」
体を捩って逃げようとするが、こんな狭い空間で(いや、例えここが多少広い空間であったとしても)逃げられる場所など何処にあろうか。
それどころか背中を撫でまわしていた手がぬるりとお腹の方へ回ってきた。
「はァ……成る程、確かに高揚するな……」
耳元で声がする。荒い呼吸で男が体を寄せてきたのだ。裸の胸板がぐっとの背中に押し付けられる。
生の肌が触れ合う感触にはゾッとした。
男に触れられることが初めてだからではない。得体の知れない男に触れられているからだ。
しかし男の手は止まることを知らずの胸を掬い上げるようにして掴んだ。
ひっと喉から絞り出されたような悲鳴が上がる。
「いや、いやぁ……放して……」
振り払おうと男の腕を掴んでみてぎょっとした。
ぎゅっと力強くの体を抱きしめているということもあるのだが、想像以上に太くてがっちりとしている。掌に伝わる逞しい筋肉のラインは、振り解くことが非常に困難であるとに強く訴えていた。
嗚呼、と絶望的な気分で助けを求めて縋るものを探す手が空を切る。
だけどここにを助けるものは存在しなかった。
普段祈りもしない神すら彼女を助けたりはしない。それは今、正に背後で何も知らぬに絶望を与えているのだから。
「ふ、ふふふ……下種な感情だと思っていたが……不思議と悪くない」
男はか弱い抵抗をするに後ろ暗い興奮を覚え、低く笑う。
の嫌がる素振りも全く意に介さず、柔らかな体をきつく抱き込んだ。
むにゅう、とふくよかな胸に男の指が食い込む。
粘液だった液体石鹸は体を撫で回されている内にぷくぷくとした細かい泡になり、抱き寄せられた体温も手伝っての体を暖かく包んでいるのに。
「……放して、お願いィ…………」
消え入りそうな細い声で懇願を繰り返すは、体の震えが止まらなかった。



彼は、覚えているのだろうか。
神を自称する彼なら覚えていない振りをすることがあっても、忘れるということはきっと無いに違いない。
窓から見える真円の月に視線を移すと、始まりの夜がありありと脳内に蘇ってくるのである。後にブラックと名乗るこの男によって行われた、意に沿わない嵐のような暴虐の夜が。
男の体の下敷きにされて見上げた先に見えた真円の月が脳裏に焼き付いている。
きっと生涯忘れることはないだろう。心の隙間に白く影を落とす傷の形が目に見えたなら、間違いなく胸を射抜く円い傷痕だ。
散々を蹂躙したブラックは、最終的にこんなことを言った。
「この体になってから、神の身では感じることのなかった感覚に襲われるようになった。まさか発情という浅ましい本能に抗えなくなるなど思いもよらなかったよ」
自嘲気味に殊勝な声を出してみたりするおまけ付きで。
加害者の自覚はないのだろうか。何故か傷ついた顔をする。そのくせ彼の視線はその後も毎夜衰えることはない。
ギラついた獣の視線が今夜もの胸の膨らみの上を繰り返し辿っている。
ブラックは二、三日に一度くらいの割り合いでの許を訪れるが、満月の夜は必ず姿を現した。
普段は傲慢という言葉が似合う男だが、満月の夜だけは荒々しい態度に変わる。
雪崩込むように部屋に入ってきたと思ったら、次の瞬間には呼吸も出来ないほどきつく抱きすくめられて唇を塞がれて。
「んふ、ん、ん、ぅんん……」
ぷちゅう、と音を立てて唇が吸われる。
まだ完全に慣れることは出来なくて、唇を引き結んでいたら、宥めるようにブラックの舌先がの唇を舐め始めた。
自称神の彼は本当はきっと頭も要領も良い男だったのだろうと思う。最初の夜はただただ蹂躙するだけだった舌先も今ではに心地良い夢を見せてくれる。
ブラックは何処かで掛け違えたボタンがもう元に戻らないだけなのだ。
そして悲しいことにには掛け違ってしまったボタンを正しい位置に戻してあげることなど出来はしない。
「はふ……っ」
出来ることといえば、こうして求めに応じることくらいのものだ。
薄らと唇を開いてブラックの舌先を受け入れる。
「は、ん……ン、んぅ……」
ぬるぬると舌先を絡み合わせて、舐めしゃぶると腰に回ったブラックの手に力が籠る。
「ぷあ、っ……、あん、ん、ん……は、ブラック、は、あぁん……」
腕の中に収められることへの不快感は既に無くなっていた。体を重ね続ければ絆されもする。生命を脅かされないうちは、きっとこのまま自分を騙していける筈だとは思う。
「は、堪らない気分だ……」
舌先に銀の糸を引きながら目を細める彼の表情のいやらしいこと。
をベッドの上に突き飛ばし、前袷を素早く脱ぎ捨てて覆い被さってきた。
それを脱いでしまうと全身黒づくめで、一見ストイックそうにも見えるブラックだが、本質は全く違う……と言うよりも彼曰く自身の精神に見合わぬ肉体のせいらしい。
を下敷きにしたブラックは迷わず彼女の首筋に鼻先を押し付けた。
「はーっはーっ……」
浅い呼吸音とともにブラックはすんすん鼻を鳴らしながらの匂いを恍惚と吸っている。
恥ずかしさとくすぐったさが入り交じり、思わず身じろぎすると敷布の上で互いの足が縺れ合った。
唇が掠めるように首筋を辿り、彼の手はの胸元を弄る。
「ブラック……、くすぐったい、よ……」
服の上からやや乱暴に乳房を捏ね回し、ぐいぐい体を押し付けるブラック。
部屋に入る前からそうなっていたのであろう、ブラックの固くなったものが内股に擦り付けられて落ち着かない気分である。
「んっ、ふ、あぁ……!」
性急な動作でブラックの手が服の中に潜ってきた。手探りで下着も押し上げ、滑らかな肌を直に掴む。
「あ、や、そこ……っ、あ、やだ、やだぁ……」
「何が嫌だ、こんなにして」
ぷっくりと膨らんだ乳首を遠慮なくきゅううううっと摘み上げられた。僅かに痛みを感じるか感じないか……敏感になった部分への刺激に思わず腰が浮く。
の満更でもない反応は、ブラックを良い気分にした。
そのまま服を捲り上げ乳房にかぶりつく。
「あうんっ!」
びくっとが肩を震わせると同時にぷちゅぷちゅと淡い音が響き始める。
「は、あ、はぁ、あぁぁあ……っ、ブラッ、クぅ……っ」
名を呼ぶの声は陶然としていて甘かった。
唾液を帯びた舌がねっとりと乳首を捏ねたり、やんわりと吸われたり……。
その度にの腰に熱い疼きが生まれる。きゅうっとお腹の奥が苦しくなるような、戦慄く感覚が。
ブラックは空いている方の胸も掬い上げるように掴むと、ぷにぷにと乳首を抓り始めた。時々円を描くように指の腹で押しつぶしてみたりもする。
「んン……!あ、だめ……、感じちゃうよォ」
意地の悪い舌先で乳首を弾かれると体がひとりでに跳ねてしまう。
足の間からはじゅわ、と湿った感覚もするのだ。まだちょっぴり愛撫されただけなのに、興奮を覚える自分が恥ずかしい。
居心地悪く膝を擦り合わせていると、その様子を目聡く見つけたブラックがくすぐるように脇腹を撫でてきた。
「随分と期待しているようだな。卑しい女め」
ニヤニヤしながら臍の窪みにくるりと指先を這わせ、下腹をつーっと辿っていく。
そしてそのまま柔らかなの足の間に触れた。
「うぅっ……」
既に何度も彼に暴かれている部分ではあるが、羞恥心はそう簡単に拭い去れるものでもない。思わず足を閉じてしまいそうになるのをぐっと堪える。
ブラックはねろねろと乳首を嬲りながら、指先での溝を上下になぞった。
まだ布越しに軽く撫でられただけなのに既にじっとりと湿った感覚が伝わってくる。
「あぁ……っ、ブラック、あ、ああぁん……」
敏感な部分を舌や指で弄られては体を波打たせた。
背筋はしなやかに反り、愛撫を続けるブラックにもっと欲しいと胸を差し出しているかのよう。ざわつく波のような快感で腰が重苦しい。
探るような指先は布越しで焦れったいのに、は肌が粟立つ程に感じてしまった。
「んン……っはぁ、あ、あぁっ……気持ちいィ……」
性感帯を刺激されれば感じてしまうのは仕方がない。甘い溜め息を吐きながらはただ、ブラックの体の下でのたうつのみである。
暫くして、ちゅぽ、と粘質な音を立て、胸から唇を離したブラックはの下穿きを引き下ろした。
そして、彼女の太股に手をかける。
「今日みたいな月の夜はな……このメスの匂いが堪らなくなるんだ。さあ、力を抜け」
文字通り舌なめずりをする獣に、の足は割り開かれた。
はぁっはぁっ、と荒い呼吸が近づいてくる。
神を自称する彼がこんなことを……と、思わなくないが、ブラックが望んでいる以上に拒否権などあるはずもない。
濡れ始めた割れ目を指先で押し広げ、ブラックの舌先がぬるんと敏感な部分を撫でた。
「ひうっ!」
びくっと反応したの腰はブラックにがっちり押さえ込まれているのでびくともしない。
「はーっ、はーっ……ああ、これだ。は、ふ……」
味を確かめるように上下する舌先。
の頬が熱を持つ。
「あぁぁ……恥ずかし、ぃ……っ、あぁ、あんまり、し、ないで……」
じわじわと零れ落ちる愛液を殊更丁寧に舐め取られては顔を両手で覆った。
こんなこと、過去の何人かの恋人にだってされたことはない。
ブラックの吐息が、唇が、探るような舌先が、粘膜をぬろぬろと犯している。
「はぁっ、はぁっ……ブラ、ック……それ以上は、やぁ、あぁぁっ……」
ざらつく感触は柔い肉を撫でるだけに止まらず、更に奥へと侵入しようとしていた。
入り口の周りを軽く舐められただけで脳内が熱を持ち、きゅぅんと足の間が切なくなる。
今、彼が遠慮なく男性器を押し込んだなら、一瞬で駆け上がってしまうかも知れないのに。
それなのに今、彼の舌先がくぷりと内側に押し込まれた。
「ぃんんんっ!ナカまで……っ、あぁ、はぁぁ、入れちゃ、だめ……っ」
一瞬意識が遠くなりそうになって、はぎゅっと目をつむり敷布を掴んだ。
しかしブラックはそんなの言葉を聞き入れはしない。
びくびく蠢く彼女の体内までも舐め尽くすように舌先がずくずく埋まり込む。
「あーっ、あぁあ、やだ、あっあっ、ナカ、舐め、ちゃァ……!」
流石に指ほど自由にはならないようだが、ちゅぽちゅぽといやらしい音を立てながら抜き差しされると堪らない。
蹂躙されるのではなく、やんわりと体内を広げられている、そんな感覚。
思わずブラックを押し返そうと手を伸ばしてみたものの、脱力した指先はブラックの黒髪に絡まるだけだった。
寧ろ強請られているようだとさえ感じ、ブラックは言い知れぬ快感にこっそりと身を震わせる。
それは雌を悦ばせているのだという本能の充足だったが、ブラックに自覚などは存在しない。
ただ、無性に声を上げさせてやりたくなって、それまでずっと触れもしなかったの一番敏感な部分に舌先を伸ばしたのである。
「うあ!」
ごく軽く、ちょんと触られただけでもの爪先から頭の先まで衝撃が走った。
「あっ!あっ!あっ!やらァ…っ!あっあっ!あぅうんっ!それイく、っ!イくからぁっ…!」
尖らせた舌先で弾くように嬲るとそのリズムに合わせてが咽ぶ。
嗚呼、自分の思い通りになるというのは何と気持ちの良いことだろう。思わずを可愛いなどと思ってしまうくらいには。
堪らず膨らんだ突起をぷちゅっと含んだ瞬間、の体は一気に駆け上がっていた。
「くふうぅううっ…!!」
びくびくっと腰が跳ねて下腹の奥がきゅううううっと痙攣するのが分かる。
絶頂の余韻に何度も軽く跳ねる体をぐったり横たえて、は途切れ途切れの息を吐いた。
「……あ、……あはぁ、もォ、はぁあ、ぶら、く、いないと……っ、いきていけないよォ……」
こんな気持ちの良いことを教え込まれた後で、飽きて手を離されてしまったらどうすれば良いのだろう。
しかしブラックは彼女の気持ちなど知る由もなく、口元を拭いながらニヤニヤと目を細めている。
「ククク、良い子だ……」
ブラックがいないと生きていけない。
この言葉は神を自負するブラックを心の底から充足させてくれるのだ。
迷える子羊に手を差し伸べるのが神の本分なのだから、彼女を素晴らしき世界へ導くのは自分だけなのだと思うと人間への留飲も下がる。
そして満足するまで彼女の味を堪能した後には、更に気持ちの良い行為が待っていることを彼は知っていた。
神でもある彼がその行為の快感を知ったのはに会ってからだが、それがこの肉体を得た利点の一つだとしたら皮肉的である。
に襲い掛かる際、前袷は脱ぎ捨てていたので腰帯を解く手間もない。
ほんの少し道着の下衣を下げて、反るほどに勃起したものを今まで散々舐め回した部分に押し付けた。
「やだァ……待って、あたし、イったばっかりなのにィ……」
「ハッ、知らんな」
寧ろ極まった直後だから良いのだ。期待と興奮に上ずる声が掠れている。
じっとりと熱く震えるの肉の感触は最高だ。柔く濡れた入り口にぐっと先端をめり込ませる。
「んはぁっ、あっあっ、だめっ、ゆっくりシてぇ……っ」
「知らんと言った」
ずり上がって逃げようとする腰を掴みずぶずぶと侵入する。
「ああ、っ……、これだ、ァぁあ……最高だ……」
溜め息交じりの恍惚の声。人間を狩るときとは全く違う、目眩く肉体的な快楽がここにある。
「んんんん……、っ、いきなりすぎるよォ……っ」
敏感な体内をいきなり蹂躙されたは苦しそうに息を吐いた。
狭い体内をこじ開けられるのは快感を伴うが、立て続けの快楽は苦しくもある。勝手に強張る体がくちくちと飲み込んだものを断続的に締め付けていた。
「ハ、ハハ……いいぞ、っ」
生理的な反応だったが、殊更気を良くしたらしい。そのまま手を突くとやや乱暴に腰を打ち付け始めた。
「あっ、あっ、ちょ、っ…!は、あっあっ…!」
たっぷりと舌で愛撫されたそこは、既に涎を垂らしてぐじゅぐじゅになっている。
ぬかるむ肉の壁が纏わりつくようにブラックの勃起を舐めていた。体の下では
いやらしく肢体をくねらせている。
胸から下腹にかけての滑らかな曲線は、何となく彼の背筋を冷たくさせた。
ごくりと喉が鳴る。
そして体を屈めると、ブラックは彼女の柔らかく揺れる胸にかぶりついた。瞬間、彼女の下腹部は食い付きが良くなる。
「ふあ、胸だめ……!あぁぁあ、奥ぅ……っ!んンっ深いよォ……!」
頬張るようにちゅうちゅう吸うと、それに合わせての体内はびくびく戦慄いた。
嗚呼、これだ。これが欲しかった。最高に気持ちが良い。脳内がどろどろになる。
「あっ、やぁ、ブラック!ブラック……!」
悲鳴じみたの声も好ましい。打ち付ける腰がゾクゾクと甘く震える。
感じるほどに勃起を締め付ける膣壁の感覚が堪らず、ブラックはぐりぐりと先端を子宮口に擦り付けた。
途端、は背中をしならせ膝でブラックの腰を挟み込む。
「だめェ……っ、気持ちィい……っ!はうぅ、そこ、きもちいィのぉ……っ」
最奥を突かれたの体内がきゅううううときつく締まる。
「っ、う……」
戦慄く感触にブラックは眉根を寄せた。
体内を穿つ腰つきがだんだんと速度を増しはじめる。彼のその時が近い。
ブラックは、はっはっと獣のような浅い呼吸を繰り返し夢中での体内の感触を貪っていたが、やがてぶるっと体を震わせた。
「……、っう、は……出すぞ、っ、あ、く……っ!」
びゅぶっびゅぶっびゅるるっ!
瞬間、の体内の深いところで熱が生まれる。
断続的に体内を打つ射精の感覚にも白い首を晒して仰け反った。
「ひぃぅ……っ、だめっ、出されてイく!あーっイくっイくっ!」
びくっびくっと下腹が震え、細い爪先が空を蹴る。
脳内が痺れて麻痺してしまったかのよう。
一瞬呼吸すらも忘れる絶頂を極め、呆然と虚空を見つめるの上に、脱力したようなブラックが覆い被さってきた。
彼が呼吸を乱して伏せる様は、言いようもなく色っぽい雰囲気がある。
口にはしないが、はこの彼を見ることを少しだけ好ましく思っていた。



事が済むと、ブラックはいつでも真っ先にと彼を洗浄した。
潔癖症なのだろうかと考えたこともあったが、結局良く分からない。ただ、初めて出会った時のような乱暴な洗浄は、最近ではめっきり行われなくなった。
寧ろ最近では浴槽に張られたお湯に二人で身を沈めることだってあるくらいだ。
大人二人を収容したせいで、浴槽からざぶざぶと溢れるお湯を贅沢な気分で眺めることも増えた。
避難生活から考えると、本当になんて恵まれた環境にいるのだろう。
何かに憑りつかれたようなブラックとのセックスも、最近では苦痛ではなくなっている。
全てを受け入れる程の心はブラックに対して開かれてはいないものの、ある種の諦めの境地のような到達点には達していたのだった。
「……
事後、ブラックは一度だけの名前を呼ぶ。
部屋に入って出ていくまでで、たった一度だけ。
はブラックに視線を投げた。
「私が出て行った後は何かの気配を感じても絶対に部屋を出るな。声を掛けられても扉は開けるんじゃないぞ」
「……分かってるよ。毎回言わなくても、大丈夫だってば……」
これは彼がを攫ってきてから出ていくときに必ず毎回言う言葉だった。
当初はふざけるな、何があってもここから逃げる……と、思っていたりもした。
しかし自分がここからいなくなったら何が起こるだろうと考えた時、その思考の結論にゾッと総毛立つ自分がいて、現在に至る。
もしがこの場から姿を消した場合、間違いなく第二、第三のが生まれるだろう。
人知れず拐かされ、恐ろしい洗浄行為を受けた後、嵐のような強引さで嬲られる女が増えるかもしれないという事実。
眩暈すら覚える結論に、はこのままの生活に諦めという到達点を見出すことにしたのである。
更には考える。
ブラックはもしかしたらの所属していた集団が、彼女を助けに来ると考えているのかもしれない……と。
しかしそんなことは絶対に無いのである。
あの時、代表格の男が言った言葉――『皆で決めた取り決めを覚えているか?最後の項目だ。万一の話だが忘れないように行動して欲しい』という言葉に全ては集約される。
実は新参者を受け入れる時の取り決めというのは一つだけしかなかった。『最後の項目』なぞ存在しないのである。(強いて言うなら最初で最後の項目、とも言えるかもしれない)
その取り決めとは『新参者が現れて、誰か一人でも行方不明になった場合、その者を切り捨てて即座に避難場所を変更する』というもの。
正直世界を荒らし回る者の正体が一向に分からないので、仕方なくそのような取り決めを作っていたのだ。
誘拐された者が避難場所を吐露してしまわないとは限らないし、複数犯である場合には新参者が諜報のような活動をするかもしれない。
怪しい、危ないと判断した時点で、狙われてしまった者にとっては不運ではあるが、全体を生かすために犠牲になって貰おうという取り決めなのであった。
故に、本当に行方不明者となってしまったを探しに来るものなどもう世界の何処にも存在しない。
彼女の存命を知る者は、ブラック只一人になってしまったといっても過言ではない。
だからこそ、そこまで釘を刺さずとも彼の心配するようなことは何もないというのに。
洗浄が終わるとブラックは部屋を出ていく。
何処に行くのだろう。彼がもしアレの正体なのだとしたら、自身が犠牲になることで避難を果たしたであろうあの集団が僅かでも長く存命すれば良いと思う。
彼らは逃げ切ってくれるだろうか。
だけど子羊を隠すには、満月の夜は明るすぎる。


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ここまで読んでいただいてありがとうございます。
この先は蛇足なので、バッドエンドが好きな方だけどうぞ^^;



























異次元からの相棒が、月の明るい夜――殊更満月の夜などに様子がおかしくなることを知っている。
人間狩りを楽しんだ後、いつも決まって真夜中に隠れ家を抜け出しているようだ。
最初は余り気にしていなかったのだが、最近ではかなり頻繁だ。
一度、神の肉体を捨てた代償を払わされている……と呟いた言葉をそれとなく拾ってしまったこともある。
第二の自分自身とも言える彼を失うようなことがあってはならない。
不死身の肉体を得たとは言え、基本的な戦闘力で、自身は彼に遠く及ばないことは嫌というほど理解している。
丁度、今夜は満月だ。
やはり相棒は今夜も隠れ家を出ていく。疑念と僅かな好奇心。
その後ろ姿を見失わないように、しかし気づかれないように慎重に後をつけた。
どうやら彼はもう一つ隠れ家を使っているらしい。
流石にこの隠し事には焦りを禁じ得なかった。人間ゼロ計画だけでなく、何か別の企みがあるのかと訝しく感じてしまう。
だが、その隠れ家から漏れ聞こえてくる物音を盗み聞いたことを死ぬほど後悔した。
吐き気すら催す悍ましい内容。
まさか神である相棒が生殖行為にのめり込んでいるなどとは。
成る程、神の肉体を捨てた代償とはこのことであるのかと納得するとともに、言い知れぬ怒りを感じてしまう。
彼は自分自身と同等であり、崇高なる精神を宿しているはずなのだ。
故に下賤な行為に耽るのは肉体の影響を鑑みても、誑かした女という生き物に罪がある。断罪は女を処分することで成されるべきなのだ。
相棒が隠れ家を後にするのを待って断罪を成そうと考えた。
その間もやはり生々しくも悍ましい声が漏れ聞こえてくる。どんな拷問よりも酷いと感じ、怒りはじわじわと増長する。
そしてその怒りに任せてとうとう家の中に踏み込む時が来たのである。


「いるんだろう、人間。出て来い」


ぎくりとした。
知らない男の声だった。
部屋の中を乱暴に歩くような音に、一瞬ブラックが戻ってきたのかと思ったけれど違ったようだ。
誰だろう?
しかしブラックには部屋を出るな、扉を開けるなと釘を刺されている。
それに外の男の声にはかなりの怒気が含まれており、従うのは躊躇われた。
足音を立てないようにゆっくりと扉から距離をとる。


「ブラック……じゃない、よね……?アナタ、誰……?」


ブラック。
憎悪の対象から分身とも言える相棒の名が出てきたことに、尋常ではない程の怒りを煽られた。
嗚呼、呼吸の方法すら忘れてしまいそうだ。右手に気を集中させる。
それが研ぎ澄まされた刃の形を成したなら後は簡単だ。
相棒を堕落させた生き物は早急に処分しなくてはならないだろう。
彼はこの断罪をどう思うだろうか。勝手なことをしたと憤慨するだろうか。しかしきっとこれが正しい行いであると分かってくれるはずだ。
何故なら、彼は私そのものなのだから。
目を細めて、腕を振り上げた。
その切っ先が真後ろの窓に重なる。
丁度窓の外の満月を貫いているかのように。