救済される無神論者

 周囲から鼻をすする音が聞こえてくる。
 許可が出た直後からある者は携帯端末に小さな声で話しかけているし、ある者はスケジュール帳に熱心に何かを書き付けていた。隣の乗客もさっきからあちこちへと電話をかけては切り、を繰り返している。
 最期にそんなにも話す人がいるのかと何処か感心した気分になった。
 さて、自分自身はどうだろう。
 周囲が慌ただしく混乱する最中にいて冷静とはいえない気分だった。
 胸の奥を握られたような嫌な緊張感と不安は確実に存在し、手を震えさせている。血の気も失っているのだろう。手足の末端が異様に冷たくなっているのを感じる。
 窓の方に視線を移そうとした瞬間、機内ががたんと大きく揺れた。一気に周囲が混乱を深める。
 もう、長くは保たないのだろう。
 を含む多くの乗客を乗せたこの飛行機は墜落するのだ。いや、既に落ち始めている。
 海に落ちようが山に落ちようが、飛行機の事故は殆ど死に直結している。空から落ちるのだから当たり前だが、墜落時の衝撃でこの自重を持つ体を保てるわけがないのだ。地面で生きる人間に墜落時に備えた構造が搭載されているはずがない。
 つまりを含む大多数は、暫くの後に皆死ぬのである。
 奇跡的に命を拾うものはいるだろうか? いたとしてもごく僅か……その僅かのうちに運良く滑り込むことなどあるだろうか。
 途切れ途切れの機内放送に耳を傾けようとしたが、迫り来る死の恐怖の中でそれを聞き取り理解することは困難だった。
 周囲の者と同じように誰かに電話をしようとして取り出した携帯端末をきつく握り締める。取り出したは良いものの、誰にかければ良いのか全く分からなかった。一度は電話帳の名前を確認してみたけれど、どの番号も選ぶことが出来なかったのだ。死の間際に、自らの存在を記憶に留めてくれと伝えるような相手がには存在しなことだけが分かった。
 ああ、何だろう、無性に寂しい。
 死ぬ時は誰しも独りきりだと思っていた。
 しかし周囲を見渡せば、必ずしもそうではないらしい。彼らには彼らを待つ誰かが存在している。
 しかし、には残念ながらそのような相手はいないのだった。
 それが言いようもなく寂しくて、ほんの少しだけ悲しかった。



 果たして死とは、痛みを伴うものなのだろうか。瞬間的な痛みや苦痛は伴うだろうがそれもすぐに途切れてしまうのか。途切れた意識は一体自身に何をもたらすだろう。いや、そもそも意識が途切れたのであればもう何も感じるはずがない。目覚めぬ眠りと同義なのではないだろうか。
 となると、現在自身はまだ死んでいないのかもしれない。
 この思考を行っているということはまだ死んでいないと言える。
 もしかしたら一秒後には死が降りかかり思考が途絶えてしまうかもしれないが、今この時点では死んでいないはずだ。
 では、いつ死ぬんだろう……。

「いいや、お前は死なんぞ」

 ズキンと脳内を稲妻が駆け抜けた。
 鋭く突き刺さる痛みの信号が徐々に明瞭さを増していく。
 頭が痛い、すごく痛い。
 自覚した痛みが増すに従って、誘発されるように胸元も痛み始めた。ずぐん、ずぐん……心臓の鼓動に合わせるように痛みが体の芯に響く。
 だが、不思議なことにその痛みがある時をピークに徐々に失われていった。しかも何だか暖かくて心地良い。もしかしてこれが死……?
「死なんと言っている。黙って治療されていろ」
 ……治療?
 覚えのない声に薄っすらと目を開けた。
 ずっと目を閉じていたからだろうか、最初はとても眩しくて目が霞むようだった。鮮烈な光が視界を覆っているかのよう。しかしそれも徐々に慣れ始めると、今度は抜けるような青空が見えた。
 快晴だ。
 雲もなく、ただ青いだけの空間がどこまでも広がっている。
 この光景をあの世のものだと言われても信じたかもしれない。しかしどうやら自身は死んでおらず、治療を受けているらしい。そう意識すると痛覚以外の感覚が蘇ってくる。
 頭の下が冷たくて硬い。背中も同様だ。恐る恐る指先を動かしてみると石のような感覚に触れる。地面の上に寝かされているらしい。視界に空が映るということは仰向けの状態と思っていいだろう。ゆっくりと視線を泳がせる。
 最初に目に入ったのは不思議な服を来た男の子だった。
「あの、僕のこと見えますか?」
「……え、……ぅ」
 見えます、と答えたつもりだったが吐息のような声が漏れるだけだった。仕方なく頭を縦に振る。男の子はぱあっと顔を明るくした後、驚かないでくださいね、と見た目の推定年齢の割に丁寧な言葉で話を続ける。
「怪我が酷かったので地球の神様に貴方を治してもらっています。多分神様は想像している姿とは全然違うと思います。でも怖がらなくても大丈夫ですから」
 かみさま……。
 急に胡散臭くなった。すっと脳内が冷えていくのを感じながら、それでも少しずつ痛みが引いていく不思議な現象は収まらない。そして暫くの後、とうとう。
「終わりましたよ」
 と、別の方向から声をかけられた。多分これが神様の声なのだろう。確かに想像以上に若い……と、いうか幼すぎないか? 神様って言ったらもっとこう長い真っ白な髭のおじいちゃん……いや、想像してる姿とは全然違うって男の子は言ったけどそれにしたって限度があるはずだ。
 そんなことを考えながら体を起こした。どこか痛んだら……と思うと漠然と怖かったが、幸い痛みを感じることはなかった。
 しかし、実際今痛みに襲われていたとしててもきっと気が付かなかっただろう。何故なら、は痛みなど感じる隙も無いほどの衝撃に見舞われていたからである。
「……ッ!?」
 見たこともないような人種がの目の前にいた。
 いや、正確には何処かで見たことがある気もする。確かテレビ中継だったはずだ。記憶が古くてもう思い出せないけれど。
 腕を組んでを睨み付けるように見下ろしているその人と、にこやかにを見つめるもう一人と。にこやかな方は男の子よりも背が低く、幼い。ということは治療してくれた神様とはこの子供の方なのか。
「体に変なところはないですか?どこかが痛かったら治します」
「ぁ……ぇ、ぅ……」
 冷静を取り繕いながら、ありません、と言おうとしたがやはり吐息のような呻き声のようなものが漏れるばかり。あれ? 変だな? と首を傾げたのと腕を組んだ人(?)が顔を顰めたのはほぼ同時のことだった。
「貴様、まさか……。おい、名前を言ってみろ」
「ぃ……ォぇ……」
 自分ではです、と言ったつもりだった。だがそれは言葉にならなかった。流石におかしいことが自分自身でも分かる。少し息を吐き、ちょっと止めて、それから軽く息を吸ってもう一度名前を言おうと試みる。
「ぃ、ォ……」
 ……。
 嗚呼、そんな。
「デンデ、声帯部分に異常があるかもしれん。喉だ」
「は、はい! あの、ちょっとだけ喉のところ触ってもいいですか」
 幼い方が手を伸ばして近づいてきた。一瞬身構えたが、例えば彼らが本当は悪人であったとしても、何かをするならが気絶している間に済ませているだろう。それに怪我まで治してくれたのだ。今から害を与えるとも思いにくい。よっては抵抗することなくじっとしていた。余談だが後々このやり取りを蒸し返し、人体の急所でもある首の部分を無防備に差し出したのは間違いだと言われることになるがも当人もまだ知らない。
 喉元に触れた手が不思議な光を発して暖かくなった。
 こうして治療されていたのか……と密かな得心を得る。
「……どうですか。名前、言えますか?」
「……ぉ」
 、の一言がやはり出てこない。
「ピッコロさん……お姉さん、どうしちゃったんでしょう」
「体に異常がないのだとすれば精神的ショックから一時的に声を失ったんだろう。まあ事故の後だ。致し方ない」
 事故……!
 そうだった。何故自身が死を想像したかと言えば、搭乗していた飛行機が墜落したんだった。一気に脳内に死を覚悟した記憶が蘇ってくる。握りしめていた携帯端末はどうしてしまったんだろう。結局最期に声をかけたい人も見つからないまま、記憶は曖昧に途切れていた。
 最初に声をかけてくれた男の子が駆け寄ってくる。
「お姉さん、僕孫悟飯っていいます。こっちは僕の友達のデンデ。あっちにいるのがピッコロさんです」
「……」
 ご丁寧にどうも。小さく頷くとピッコロと名前を呼ばれた一番の年長者と思しき人物が口を開いた。
「その女はというらしい。お前に礼を言っている」
「!」
 驚愕が顔に表れたのだろうか、男の子──悟飯は安心させるかのようににこっと笑う。
「ピッコロさんは心の中を読むことが出来るんです。もし話したいことがあれば心の中で言ってみてもらえませんか」
 えっ、心の中を覗かれるなんて嫌です。
「心の中を覗かれるのは気に入らんそうだ」
 やめてください!
「やめてもいいが今は不便だろう。深層までは読まん。とりあえず悟飯の言い分を先に聞いたらどうだ」
「デンデがさんを治したので、体の方は大丈夫だと思います。家は何処ですか」
 家……。
 その、……家はまだありません。唯一の親族である母が病気で亡くなったので持ち家を処分して引っ越す予定でした。既に元生家には買い手が……。ある程度の物件にあたりをつけて新天地に向かう飛行機が墜落したんです。
「身寄りなく引っ越す予定で飛行機に乗ったら事故に遭ったらしい。引っ越し先は決まっていなかったようだ」
 事故直後の混乱で今ひとつ理解していなかったが、は最悪のタイミングで声を失ってしまったことを強く自覚した。勿論会話が出来ずとも家を借りることは不可能ではないだろう。筆談でも良いし、携帯端末で文字を打って見せてもいい。多少時間は掛かるだろうが、それくらいならば越えられない壁ではないはずだ。
 しかし、それは飽くまでも長期的な見通しとしての壁である。もっと手近な問題はそう簡単に片付くとは思えない。少なくとも当面の生活にはとても困るだろう。会話に不自由するなら一時的に通販を使用するなどの手段もあるが、現状住所不定のには使いにくい手段である。そして、携帯端末もメッセージのやり取りは問題ないが、通話は利用できない。
 新天地で職を求めようとしていたにはこれが一番重大な問題と言えた。
「口がきけず家もなく職もなしか。厄介だな」
 改めて口にされると気分が重くなる。黙っていてくれればいいのに。
 これもきっと聞こえているのだろうなと思いつつ、考えてしまうことを止められない。だからこそ心の中を覗かれるのが嫌なのだが、聞こえたはずの当人は腕を組んだまま無言で立っているのみである。
「確かにさん一人だと大変ですけど、ピッコロさんが手伝ってくれれば問題が減ると思います!」
 その重暗い気持ちを吹き飛ばすかのように、唐突に投下された爆弾発言はだけでなくピッコロの顔もあげさせた。
「何故この俺が縁もゆかりもない女を助けなければならんのだ」
「だって僕じゃさんの言葉を聞くことは出来ないし……。でもピッコロさんならすぐに分かるじゃないですか」
 その言い分は200%間違ってはいないけれど、にとって良い提案でないことは確かだった。
 子供って空気読まないなあ……。この微妙な空気感じないの? それに悟飯君、さっきあたしが心の中を覗かれるのが嫌って言ったこと完全無視だね。
「悟飯にそういう機微を期待するな」
 思いもよらぬ返答を受け、がおずおずとピッコロに視線を向けると、彼はから視線を外してもっと遠くの方を見ているようだった。
 ああ、苦労してるんだ。お察しします。



 精神的なダメージとはどのようにしたら解消されるものなのだろうか。三日経っても一向に声が戻らずは困り果てて窓の外を見ていた。
 あの後結局ピッコロが悟飯に折れる形ではこの神殿に居座ることになってしまった。雲の上よりももっと上に位置するここは、もしかしたら地上で一番天国に近い場所なのかもしれない。困ったことに手で持っていた携帯端末は、事故の衝撃で何処かに落としてしまったらしかった。今や空白の時間の殆どを埋めてくれると言っても過言ではない端末が手元にない生活は落ち着かず退屈だった。ついでに悪用されるのも怖いので、事故現場の近くに住んでいるという悟飯に捜索をお願いしておいた。見つからない可能性のほうが高いが、気休めという意味で頼まずにいられなかったのだった。
 不便になってしまった意思の疎通を図るため、ピッコロの手を借りることに抵抗を覚えたのは間違いない。しかし、暫く神殿で厄介になって、悟飯が如何に良い提案をしたのかを思い知るようになってきた。なんと言っても、が何を言おうとしているかが分かることがかなりありがたい。ここでならは一切の言葉を話せずとも手間無くコミュニケーションがとれる。心の中を盗み見られることが前提なのだが。
 それでも、三日もすれば流石に表面上は慣れたような気になってくる。加えて、ピッコロはが何を思ったとしても不必要と思われることは口にはしなかった。受け答えや意思以外の個人的な思考や思想には全く触れることなくこの三日が過ぎていた。寧ろ思考や思想に抵触しそうなものは全て伝えず口をつぐんだままなので、が発表してくれと促す場面すらあった。
 頭を覗かれることを肯定するわけではないけれど、現実的に今の状況を鑑みるならば恐らく悟飯の提案が一番ベストな選択だったことは明らかだった。
さん。お昼ご飯にしませんか」
 部屋の外からデンデの声がかかりは勢いよく立ち上がる。
 そう、何もすることがないこの神殿で、の楽しみは最早食事だけと言っても過言ではない。
 しかしその食事も、半分くらいは気の遣うものだった。何故ならデンデもピッコロも人間の食物を必要としないからである。
 他人の家のような場所で摂るたった独りの食事は、お腹の中に恐縮と遠慮を詰め込むようなものなのだと思い知った。せめてここが新生活の始まっている場所であればどれだけ良かったか。
 嗚呼、早く声を取り戻したい。いや、せめてこの退屈だけでもどうにかならないものか……。食事が終わればまた退屈と戦いながら夕飯を待つだけなのかと思うとうんざりする。
 それでもお腹は空くのだから食べないという選択はない。いつも通り食事が用意されている部屋に入ったは、食卓を見留めるなり息を呑んだ。
 普段食事の時はデンデもピッコロもミスターポポも食卓にいないことが多いのだが、今日はデンデとピッコロが同席していた。
 しかしそれよりも目を引くのは食卓の上にところ狭しと並べられた普段の何倍もある料理の数々である。
 な、何これ……? あたしが退屈してるからって大食いチャレンジでもさせようっていうの……。
 脳内の問いにピッコロが答えるより早く、食卓の向こう側から声がかかった。
さん、こんにちわ」
 三日ぶりに見かける悟飯である。
 もう先に食べ始めていたらしくもごもごとした挨拶だったが、はそれを失礼と思うことも忘れて同席者を歓迎していた。
 悟飯君! あたしの携帯端末見つかった!?
「悟飯、捜し物は見つかったのか」
 ピッコロが即通訳してくれる。本当にこの環境がありがたい。
「あ、はい。実は見つかるには見つかったんですけど……」
 席をたった悟飯が片手に端末を握っているのを見るやいなやは駆け寄った。
「だいぶ壊れちゃってて……」
 悟飯の言うとおり画面は割れ、幾筋ものひびが走っている。それでも電源さえ入ればこの退屈とお別れだ。祈るような気持ちでは電源ボタンをぎゅっと押し込んだ。
 すると、画面が一瞬明るくなり……すぐにブラックアウトした。
 充電無い……。
 そもそも飛行機の時点で充電は百パーセントではなかったのだし、その上で三日も放置すれば当たり前の話である。
 充電器! 誰か充電器持ってない!?
「あるはずなかろう」
「何がですか?」
「その機械を動かすにはジューデンキとやらが必要だそうだ。神殿にそんなものはない」
「じゃあブルマさんのところへ行ってみたらどうでしょう。ブルマさんなら機械に詳しいですし」
 何処でも良いです! 充電器が手に入るならば!
 意気揚々とはテーブルにつく。
 少なくともこれまでのような退屈からは逃れられると思うと、普段よりもずっと箸が進んだ。
 しかし、食べ終わる頃には思い知る。
 これがの人生史上、一番もどかしい食事であるということに。
 何せ悟飯がよく食べる。あの小さな体のどこに食べ物が詰まるのかと疑問に思うほどには食べていた。
 早々に食事を終えたは、それをまんじりともしない気持ちで眺めていたけれど、もしかしたらピッコロには筒抜けだったかもしれない。それでも彼(で良いのだろうか?)は余計なことを口にはしなかった。悟飯を急かすようなことは勿論せず、いつもどおりただ黙ってその場にいるだけだった。
 それを見るともなく眺めていただったが、ふと思うことがあった。暫くピッコロの近くで暮らしていて何となく分かるようになったことがある。
 彼は悟飯がいると、何故か空気が柔らかくなるようだ。淡い和みのようなものを感じる。
 これは彼らのことを何も知らないの勘違いかもしれない。
 絶対か、と問われれば言い切る自信もない。
 それでもふとした時に悟飯を見るピッコロの視線に慈愛を感じずにはいられない。記憶に強く刻まれた病床の母の視線を思い出すのである。死の間際までを気遣い、ひっそりと息を引き取っていった母親を彷彿とするその視線。
 言いしれない懐かしさを覚え、哀悼の気持ちがじわじわと心の内に蘇ってきた。目尻に涙が浮かびそうになるのをぐっと堪える。
 嗚呼、こんな気持ちまで筒抜けなのだろうか。
 それは少し、いや随分恥ずかしい。いい歳をして母親の影を追いかけ続けていると思われるかもしれない。しかし当のピッコロは、一切の素振りを見せることはない。動揺もなく、浮足立ちもせず、いつも通りの視線で悟飯を眺め続けている。
 猛烈に悟飯とピッコロの関係性を問い質したいと思ったが、自らの意志で声を出すことが出来ないため諦めるしかなかった。それでも質問してみようかとこっそり小声で悟飯に話しかけることを試みてみたけれど、結局不自然な呼吸が漏れるだけなのだった。
 その後、悟飯はまあまあ時間を掛けてテーブルの上を綺麗に平らげた。にとっては待ちに待ったお出かけの時間である。
さん、筋斗雲に乗れるかなあ」
「大人は大抵筋斗雲には乗れん。お前が運んでやれ」
「行きはそれでも良いですけど、僕、あんまり遅くなるとお母さんが……」
 悟飯のお母さんは勉強命の教育ママらしい。大人になった今では、勉強が人生の全てではないと言い切れる。しかし人生の一部であることには違いない。加えて後々何かを学びたいと思った時には、既に振りほどけないほどのしがらみに取り憑かれてどうすることも出来なくなっていることも……。自由な時間の許すうちに学んでおくというのは本当に大切なことだ。
 そして息子である悟飯がそれを積極的に受け入れているのならば、彼の母親に非難される点は何処にもないだろう。
 悟飯の言い分にピッコロは一瞬逡巡したようであったが、すぐに諦めたように。
「俺もついていけば良いんだろう」
 と言った。
 何故行かないという選択肢があったのか、には甚だ疑問である。
 何故ならば。
 貴方いなかったら誰が通訳しくれるんですか!



 自分よりも随分背の低い男の子に横抱きにされたのは、にとって初めての経験だった。神殿から飛んでいく、と言われた時も疑問符がたくさん浮かんだが、まさか本当に空を飛んで出ていくなんて……。
 眼下に広がる景色を楽しむ余裕もなく、ひたすら怖いだけの時間だった。飛行機事故の被害者であることを少し鑑みてほしい! と、こっそり心の中で考えた瞬間、ピッコロが悟飯に少しスピードを落とすように言ってくれた。ありがたいと思ったけど、スピードが遅くなるとその分目的地への到着が遅くなる。つまり相対的に長いこと空中にいる羽目になるというわけだ。どっちもどっちだったな、と到着後に改めて思った。
 さて、到着した先はカプセルコーポレーションと大きく書かれた豪邸だった。誰もが知っている大企業の名前である。家すら収納できる不思議なカプセルを知らないものは少ないだろう。その生みの親が起こした企業がカプセルコーポレーションなのだが……。
「ブルマさーん! 何処ですかー!」
 無遠慮に屋敷の中へと駆け込んでいく悟飯だが、はそれについて行って良いものか判別出来ず立ち尽くす。
 どう見てもガードマンの一人や二人や三人や……。
 恐々と考えるの背中を不意にピッコロが押した。
「余計なことは考えなくていい。ついて行け」
 それだけ言うと、ピッコロも悟飯の後を追い掛けて歩いていく。
 不法侵入も気になるが、知らない屋敷の前で一人残されるのはもっと困るので慌ててもそれに倣った。
 少し足を踏み入れるだけで、広い屋敷に圧倒されるようだ。が今まで住まいにしてきた建物は、この屋敷の住人にとっては犬小屋にも等しいのではないだろうか。世の中には想像もできないような暮らしをしている豊かな人間がいるのだなあ……。
 見知らぬ人物に対して敗北感など覚えても仕方がないのだが、なんとなく気持ちが萎れる。それにしても、先に走って行ってしまった悟飯の姿が見えないのにピッコロは屋敷の中をずんずん進んでいく。まるで彼が何処にいるのか分っているかのような足取りで、にはとても不思議に見えた。
 当の悟飯は、一足先に目的のブルマを見つけ出していた。
「悟飯くんじゃないの。どうしたの、急に」
「ブルマさん、こんにちは。あの、お願いがあって来たんです」
「お願い? あっ、もしかしてドラゴンレーダー? どっか行くの? それなら私も一緒に……」
「ち、違いますよ。あの、ジューデンキって持ってますか? 貸してほしいんです」
「充電器? 悟飯くんの口からそんな言葉が出てくるとはねぇ……。チチさんそういうの嫌いそうだけど、ゲームでも買ってもらったの?」
「いえ、あの……最初から話すとちょっと長いんですけど……」
 言いつつ、ブルマの好奇心に満ちた視線には敵わないことを知っている。
 悟飯はかいつまんでブルマに現状を説明してやった。少なくともが事故に遭い、喋ることが出来なくなっているということは伝えなければならない。
 しかし、悟飯の説明を聞くブルマはみるみる顔色が変わっていくではないか。もしかして余計なことを言ってしまったんじゃ……と、悟飯が心配になる頃、ようやくピッコロとが追いついた。それを視界に入れた瞬間、ブルマは目の前の悟飯出はなく、に視線を投げてこんなことを言った。
「飛行機事故の唯一の行方不明者ってアナタね?」
 は……?
 見知らぬ女性からいきなり声をかけられ、はぎくりと体を硬直させた。しかしブルマはそんなの様子を歯牙にかける素振りすらない。
「悟飯くんから聞いたわよ。アナタ、飛行機事故に遭った後、神様のところで怪我を治してもらってたんでしょう?」
 そうです……けど……。
 恐る恐る小さく首肯する。
「そっか……アナタ会話が出来ないんだっけ……。厄介ねー。飛行機事故の後、乗客の人数が合わないって言って警察がアナタのこと捜索しているのよ。名前と学生時代の写真がテレビで頻繁に流されてるわ。でも、何だか印象が違うわね。やっぱり学生時代の写真と今じゃ雰囲気も変わるわよね」
 ブルマの話には戦慄した。
 確かに飛行機が墜落するなんていう大きな事故があったなら、警察が介入してくるのは当然のことだ。そして乗客のチェックは間違いなく行われるだろう。遺体を身内のもとへ送ってやらねばならないのだから。の脳内に、ざわめきと混乱の空気が蘇ってくる。周りの者が自らの最期を知り、思い思いの方法で別れを告げる瞬間。その最中にあって取り残されたように携帯端末を握る自分。
 最期の挨拶を交わす相手が見つからない寂寥感が鮮やかに蘇り、の心を重く曇らせた。
「無駄話はいい。さっさとジューデンキとやらを出せ」
 虚ろに塗り潰されそうなを押し退け、ピッコロがブルマに対峙した。しかしブルマは怯まない。
「皆がこの子を探してるのよ! 充電器渡してはいさよならなんて言えるわけないじゃないの」
 ああ、とは薄暗い気持ちになり俯く。
 彼女の言葉は全て正論である。反論の余地は何処にもない。一般的に考えて飛行機事故の直後に乗客の一人がいなくなれば騒ぎになるに決まっている。しかしそんなことも失念したまま三日も神殿で過ごしてしまった。もっとも、手元に完全な状態の携帯端末があればもっと早く気付けただろうが……と心の中で言い訳してみる。
「あ、あの……ブルマさん……。じゃあ、今ここででもいいので貸してもらえませんか?」
 暗い顔で俯くを見た悟飯が助け舟を出してくれた。自分で会話出来ないことがとてつもなくもどかしい。悟飯の言葉にまだ何か言いたげではあったものの、ブルマはとりあえず了承して傍の机の引き出しを開けた。そこには良く分からないケーブルの類がごちゃごちゃと詰め込まれていた。その何本かをブルマは引っ張り出す。
「で、何を充電したいの?」
 問われたは慌てて持参した携帯端末を差し出した。改めて目に入るヒビだらけの画面。ブルマは特に気にした風でもなくそのまま手に取って、差込口を一瞥すると迷わず引っ張り出したうちの一本を差し込んだ。
 しかし。
「ん……? んン……これダメね。通電しなくなっちゃってる」
 そんな……。
 漸く退屈な日々が終わったと思ったら最後の最後でこの仕打ち……。神様、あたし何か悪いことしました……? いや、神様はデンデなのだった。三日しか過ごしていなくてもデンデがこんなつまらない罰など下したりはしないであろうことは分かっている。それにそもそも神様など最初からいるはずがないのだから。
「ちょっと私に預けてくれる? 明日には直せると思うから。データは分からないけど、少なくとも動くようにはしてあげるわ」
 そんなことが出来るんですか?!
 視線だけで問いかけてみれば、目の前の見知らぬ女性はいたずらっぽくウインクしてみせた。
「このブルマさまに任せなさい!」
 ブルマさん……女神さま………。
「ところで、彼女、もう怪我も良さそうだけどまだ家には帰れないの? さっきも言ったけど探しているの。隠れたままは良くないと思うけど」
 幾分ブルマの声のトーンが落ち着いた。先ほどまでの責めるような口調はなりを潜め、諭すようにを見つめる。当然だが自身で説明は出来ないので頭の中でピッコロに事情を説明してくれるよう頼んだ。
「身寄りなく家もないと言っている」
「何それどういうこと?」
さん、お引っ越しの予定で飛行機に乗っていたそうです。だけど、まだおうちは決まっていなかったみたいです」
 ピッコロの言葉足らずを補完する悟飯を見ていると、何故自分で説明できないのだろうかと情けなくなってくる。その気持ちがもしかしたら言葉を引き出してくれるかもしれないと思い、声を出そうと試みた。それでもやはり不自然な呼吸が出るだけで一言も音にはならなかった。
「そうだったの……。でも声が出ないのに不動産屋を訪ねるなんて大変よね。しばらくうちに住む? 空いてる部屋なんかたくさんあるし、別に構わないわよ」
 えええええ。
 いや、そんなあっさりと……よく知りもしない人間上げちゃったら拙いでしょう。ご家族とか……色々と……。
「あまり乗り気ではないようだ」
「あらそう? まあ他人の家だもんね。事故に遭った上に知らない人間の家じゃ気疲れもするか……。うーん……それなら……」
 今度は窓際の棚の扉を開ける。まばらに物が納められた棚から何かのケースを取り出した。
「私が孫くんとドラゴンボール探しをしてた時に使ってたものを改良したものよ。家って言うには簡易的なものなんだけど、とりあえず寝起きするくらいなら使えるから貸してあげる。神様のところも悪くないとは思うけど、大きな事故の後で一人になりたいこともあるでしょう?」
 !
 手渡されたケースをおずおずと開けてみるとカプセルがいくつか収められていた。カプセルコーポレーションで渡されたものということはそういう使い方のものなのだろう。
 ブルマさん……女神様……!
 携帯端末が動くようにさえなれば隠れ住むようなことをする必要もなくなるだろう。本当は今すぐにでも名乗り出るべきなのだろうし、世間を騒がせてしまっているという後ろめたさがをじわじわと苛んでいる。それでも一日だけ、猶予が欲しかった。声が出ないことへの不安もある。自らに罪もないのに警察に出頭するなんて、漠然と怖い。一晩で良いから心を落ち着ける時間が欲しかった。
 心の底からの気持ちを込めてブルマに頭を下げたら、大袈裟ねえ、と言って朗らかに笑う。じんわりと頬が熱を持ったが、それは恥ずかしさからではないことも理解していた。



 方向が違うというので悟飯とはカプセルコーポレーション前で別れることになった。行きは悟飯に横抱きにされたが、帰りはピッコロに抱えられることになった。一日に二人もの男性(一人は子供であり、一人は男性であると断じて良いものか怪しいが)に抱き上げられるなんて、もうこの先の人生ではないかもしれない。
 あの、ピッコロさん……。
「適当なところで降ろせと言うのだろう」
 えっ……あ、はい……。
「……カリン塔の下にしておけ。どうせ明日もう一度ブルマの奴のところまで行く必要があるからな」
 あっ、そっか……。
 ……かりんとうってなんだろ……。
「神殿の真下にある塔だ。そこならば目も届く」
 ……。
「何か不満か」
 ……いえ。
 ピッコロは恐らく一番問題が起こらないようにしてくれている。可能な限り意向を汲んでくれている筈だ。初日こそ頭の中を覗かれることは嫌だったが、ピッコロが務めて余計なことは言わずにおいていてくれたおかげで、このテレパシー会話がとても気楽になっている。ほんの少し意識をピッコロに向けるだけで良い。伝わるベクトルも殆ど間違いがない。客観的事実として、ピッコロは一番正しく効率的な提案をしてくれているのだ。故に特に反論などない。寧ろ、自身のことを考えてくれているのでは……なんて思って仄かに温かい気分すら湧いてくる。悟飯に向ける柔和な雰囲気の、十分の一でも向けていてくれるのではと。錯覚には違いないが、それでもそう思うと何となく嬉しかった。
 夕闇の差し込む暗い森の中、とてつもなく長い影が何処までも伸びているのが見えた。カリン塔という塔は雲の上の神殿にまで及んでいる。真下に降ろされた時、思わず空を見上げたが、肉眼で塔の先端を見つけることは出来なかった。
 ……高い……。
「通常の人間にはまず登れんぞ」
 そうでしょうね……。そもそも普通に登った人なんかいるんですか。
「悟飯の父親が幼少期に登り切った」
 えっ……じゃあ悟飯くんのお父さんって通常の人間じゃないんですか……?
「一言で説明出来んが、尋常の奴ではない。悟飯を見て分かるだろう」
 確かに。あの食事量は尋常の人間ではないと言われてもおかしくない。もしかしたら彼こそ本当は天から遣わされた子なのかも……、などと思っていると、目の前のピッコロがニヤっとした。
 わっ、珍しく笑った……。
「当たらずとも遠からず、かもしれんな。……明日の朝迎えに来る。準備をしておけよ。色々とな」
 はい。九時までには用意を済ませておきます。
 の言葉を聞き終えると、ピッコロは軽く地面を蹴り地面から生えている塔の上へと飛んで行った。それを見えなくなるまで見送って、は辺りを見回す。ブルマから借りたホイポイカプセルを投げる場所を探そうと無意識に行った行動だったのだが、このカリン塔という塔は静かな森の中にひっそりと立っているらしい。
 見渡しても目に入るものは木々ばかり。しんと静まり返り、時折風が木立を撫でる音くらいしか聞こえてこない。神殿も似たようなものだったが、デンデやピッコロ、ミスターポポが近くにいることを知っていたので人心地があった。今はそれさえもない。独りであるという事実を突き付けられたような気がして、理由の分からない不安のような緊張感を覚える。
 幸いカリン塔の周囲は拓けていたので、心細く思いながら場所を探し回る必要もなく、ホイポイカプセルを使用することが出来た。
 部屋の中で独りきりになって一番最初に考えたのはピッコロとの脳内通信が切れてしまったかどうかということだった。向こうがどのように感じているかは分からないが、に脳内通信のオンオフは感知できない。そもそもオンオフ出来るようなものなのだろうか。ピッコロにもとから備わった力であるならばにはどうしようもなく、向こうが反応を示さないのであれば気にしない方が精神の疲弊は少ないだろうと思うことにした。
 静か……。
 あたし喋られないんだし当然よね……。
 孤独の静寂が耳を打つのは外でも中でも同じである。
 神殿での退屈を思い出し、は部屋の中にあったテレビと思しきモニターの電源を入れてみた。プツンと光が差しモニターにぱっと誰かが映る。そういえば今日は何曜日なんだろう。日付の感覚も曜日の感覚も鈍っているのが分かった。別に対して面白い内容でもないけれど、しんと静まりかえっているよりはマシだろうかとそのまま放っておく。相変わらず塞いだ気持ちには違いないが、人心地があると何となく憂鬱も成りを潜める気がした。
 携帯端末のない手持ち無沙汰を宥めつつ、テレビを点けっぱなしにしてバスルームへ向かう。お湯が出るかやや心配だったが、ちゃんと出た。加えて透明なお湯でホッとした。
 ブルマさん……結構大らかっていうか、大雑把な印象受けたけど、ちゃんとメンテナンスしてあるんだな……。
 一瞬、テレビの音が消えては後ろを振り返った。丁度何かの番組が終わったようだ。画面ではキャスターが三人並んで一礼をしているのが見えた。
 ニュース……。
 報道番組を観るのは、実はあまり気が進まなかった。ブルマの話を鵜呑みにするならは現在唯一の行方不明者なのである。自身のことをどのように報道されるかを観るのは気が重かった。色んな人に迷惑をかけたのではと思うと自責の念まで湧いてくる。それでも名乗り出ずに携帯端末の修理を待っているなんて、本当に常識外れも良いところだろう。再びの気持ちに暗雲が立ち込め、肌が熱を失う。
 もう、乗客全員と死んだことにしてくれれば良かったのに。死の間際、誰と話すこともない女の存在なんて放っておいてくれた方が皆を煩わせなくて済んだのに。
 悟飯はデンデのことを神といった。
 神は、本当は存在したのだ。
 悟飯はデンデのことを想像とは違う神と言った。
 神は、確かに想像と違っていた。
 漠然とした姿形の話ではない。万人が想像する神とは、超常の力に溢れ、慈愛の心からあらゆる奇跡を起こすものであると思う。勧善懲悪的に未知なる神通力を振るい、弱者を助け得る存在であると皆が思っているだろう。
 しかし、の目から見たデンデは、普通の人間に近かった。食事はしないし、見た目も人間とはかけ離れていたけれど、精神性は優しく穏やかで良いヒトだったと思う。
 そう、良い「ヒト」なのだ。
 確かに超常の力でもっての傷は癒やしてくれた。ピッコロも読心という不思議な力を見せてくれた。ただの人間のには計り知れない力の片鱗を体感したことは否定のしようもない。
 それでも、それだけなのだ。
 万物を思い通りにしたり、例えばの過去を無かったことにしたり……そんなことは如何に神様と言えども出来ない。神様が存在していたとしても、にとって真に神様と言える存在はやはりこの世にはいないのである。
 テレビを消してから服を脱ぎ、はバスタブに身を沈めた。熱いお湯が冷たい肌をじんと痺れさせる。嗚呼、このまま皮膚がお湯に同化してじわじわと形を失ってしまえばいいのに。憂いも煩わしさも溶けてなくなってしまえば、こんな重苦しい気持ちにならなくて済むのに。そんな気持ちで深く息を吐き出した瞬間、窓の外で大きな風が駆け抜けていく音を聞いた。ザァっと周囲の木々が騒がしく葉を鳴らしている。
 人里離れた塔の下で独り嵐の音を聞くなんて……つまらない怪談話にでも出てきそう……。
 いや嵐の音というと、には怪談というよりもっと鮮明な記憶がある。人間の記憶はきっかけがあると芋づる式にずるずると呼び起こされてしまうものなのだ。
 ……嫌だな……思い出しちゃった……。
 普段は絶対に思い出さないよう厳重に心の奥底に沈めてあるはずなのに、一番思い出したくない時にこそ蓋が開いてしまうのは何故なのだろう。風のせいか。嵐のせいか。嵐は嫌いだ。恐怖の記憶を呼び覚ましてくる。
 ここには誰もいないはずなのに、誰かに見られているような気さえしては辺りを見回した。勿論今ここはカーテンで仕切られた場所なので見回したところで空間の大きさは知れている。恐る恐る手を伸ばしてカーテンも開けてみたけれど、当たり前に誰もいない。消したテレビも黙っていた。
 ……一人になりたいと思ったはずなのに……。
 ふと思い出すのは悟飯に向けるピッコロの眼差しだった。は亡くした母親以外から慈愛の眼差しなど感じたことがない。悟飯には母親以外にも慈愛をもって接してくれる人間が存在するということだ。きっと彼なら死の間際にも電話をかける相手がいるに違いない。それはとても羨ましい話だ。
 ……ピッコロさん……。
 何の用だ。
 ! ピッ……コロさん……? え、ええっと……ど、何処に……?
 間仕切りをしてあるカーテンの隙間から改めて部屋の中を見渡せどもピッコロの姿は無い。どうやらピッコロの声は脳内に直接届いているようだ。
 俺は屋根の上だ。神殿では静かなものだったが、人間という生き物は孤独になると口数が増えるらしいな。
 あ、あたし一言も喋ってませんけど……。
 脳内の話だ。
 ……全部聞いてたんですか。
 内容は知らんぞ。通常の思念はよほど意識せん限りは小さな雑音程度にしか聞こえん。だが今は意図的に俺を呼んだだろう。
 よ……呼んだわけじゃ……。
 通常の思念なら意識せん限り聞こえんと言ったばかりだぞ。意図がないならはっきりと俺に聞こえるはずがない。
 ……。
 確かに意図がないわけでもなかったけれど。それを口にするのはとてつもなく恥ずかしい気がする。説明する瞬間を想像するだけで頬が熱くなってくるのだから。
 ……聞いたら、呆れますよ。
 ならば俺は戻るが。
 …………あの、支度するのでちょっと待っててください……。
 浴槽に浸かったままピッコロを上げるわけにもいかない。鍵も開けなければならないし。流石に着替えまで借りるのは気が引けたので(クローゼットには何着かの服が入っていた)、バスタオルだけ借り、元々着ていた服を着て扉を開ける。
 そっと屋根の上を伺うと、ピッコロがいつものように座っていた。部屋に入るように促すと無言のまま降りてくる。重力を感じさせない軽やかさに、そういえば悟飯とピッコロは空を飛べるのだと思い出す。横抱きにされた感覚まで蘇ってきそうで慌てて首を振った。
「……何をしている」
 な、何でもないです!
 見られてた……。重ね重ね恥ずかしい。
「で、俺に何の用だ」
 改めて問われると本当に用らしい用など何もないことに気付く。何と返すのが適切なのだろうか。それでも何か答えなければとは必死で言葉を探した。
 あたし……どうしたら悟飯くんみたいになれるんでしょう。
「意図も意味も分からんな。そんなことが聞きたくて俺を呼んだのか」
 ピッコロさん、時々悟飯くんのこと凄く優しく見てますよね。あたしもそういう人が欲しいんです。唯一の母親は亡くしました。もう、あたしには家族と呼べる者はありません。……一人兄がいますが……。
「兄だけか?」
 父はあたしが生まれる前に愛人を作って出ていったそうです。兄もそんな父の血を濃く継いだのかもしれません。酷い兄でした。嵐のような気性の……。母が亡くなったことを何処かで知り、僅かに残った財産分与のために家まで押しかけてきました。言われるままにあたしは家を処分することになり、兄は遺されたお金の半分を持ち去りました。本当は全部持っていくつもりだったのでしょうが、母がこっそりと別に遺してくれていたので結果的に半分を渡す形になりました。その後あたしは、もう二度と関わらないで済むように誰にも告げず地元を離れることにしました。そこで……。
「事故に遭った、というわけか」
 ピッコロの言葉には小さく頷いた。
 死の間際でさえ結局誰にも連絡出来なかった。もう死んでしまうなら、誰に居場所を伝えても問題はなかったはずなのに。知人のアドレスや電話番号が並ぶ携帯端末の画面を見つめ、誰も選べない自分は、最期ですら誰も選ばないのだと分かってしまった。悲しくて、寂しかった。
 こんなことなら……あたし、皆と一緒に死んでおけばよかったのに。
「皆と、だと? どういう意味だ」
 ブルマさんが言ってましたよね。あたしが唯一の行方不明者だって……。本当はもっと生き残るべき人がいたはずなのに……。あたしなんかが一人生き残ってしまって、事故に遭ったご遺族にも本当に申し訳ない気持ちなんです。
「何を言っている。確かにお前は唯一の行方不明者だろうが、そもそもあの事故で死んだ者など一人もいないぞ」
 …………え、っ。
「そういえば神殿のお前の部屋には何もなかったな。テレビは観なかったのか」
 み、観ましたけど……ニュースは観るのが辛くて。詳細が流れる前に消しました……。
「飛行機が地面に叩きつけられる前に悟飯が止めたからな。悟飯が落ちてくる飛行機に気付かなければお前の希望通りになっていただろうが」
 悟飯くんが止めた……? あの、あの……ちょっと言っている意味が良く……。
「別に理解する必要はない。とにかくあの事故で死んだやつはいない。ただ、止めたときの衝撃でお前が怪我を負ったようだったから、事故後の混乱に紛れて悟飯がデンデのところに連れてきた。だから人間もいつの間にか一人だけいなくなったお前のことを探しているんだろう」
「うそ……」
 !
 は目を見開いて両手で口を覆った。目の前のピッコロも流石に少し驚いたようだった。
「そうか、お前は唯一生き残ったことがショックだったのか。表層の心理には全く現れていなかったから、事故が衝撃を与えたのかと思っていたぞ」
「じこも……ショック、でしたけど……」
 少し掠れ気味の声ではあったが、久しぶりに自分の口から空気の抜ける音ではない音を聞いた。数日聞いていないだけだったのに、もう何年も聞いていない懐かしい音を聞いたような気分だった。
「ニュース、みなかったのも……あたしだけいきのこったことを、みとめるの、こわくて」
 きっとあの飛行機の中で自分以上に孤独な人間はいなかったはずなのだ。皆誰かに必要とされていた。慈愛の眼差しを向けあえる誰かが、窓の下に広がる大地の何処かにいるはずで。誰を選ぶことも出来ない自分が生き残ったことは存在しないはずの神様の手違いだと思っていた。
「だれも……しんでなくて……よかったです…………」
 呆然と呟きながらはその場にへたりこんだ。緊張が解けてしまったようで、足に力が入らなかった。これから死ぬべきではなかった人々の命を抱えて生きていかなければいけないのだと思っていたのだ。空虚な自分がどれだけの受け皿になれるかは分からないが、生き残ってしまった以上は責任を免れないだろうと。
 だけど違った。皆、ちゃんと望まれた人のところへ戻れたのだ。誰かに電話をしていた者も、熱心に手帳に何かを書きつけていた者も。
 そう思うと急に泣けてきた。
 頬の上を熱い感覚が伝わり落ちていく。
「──……っ」
 良かった。心の底からそう思う。
 へたりこんだまま、声を殺して泣いていたら、不意に目の前にピッコロがしゃがみこむ。
「あまり人間のことに詳しくはないが、こうするものなんだろう」
 ぐい、と緑色の手がの肩を力強く抱き寄せる。胸元に顔を押し付けられ、突然のことに驚くが涙は全然引っ込む様子がない。寧ろ、何だか温かくて更に涙腺が緩んでしまう。ぶわっと一気に溢れ出したそれを止める方法が分からずに、は声を上げて泣いた。



「ブルマさん、お世話になりました」
 翌日。出会い頭にカプセルケースを返却しながら伝えたら、ブルマは一瞬驚いた顔を見せ、直後に得意げな顔になる。
「声が出るようになったのね! やっぱり一人になって気持ちを落ち着けるって大事でしょ?」
 流石私! とまでは言わなかったが、ほっぺたにそう書いてあるのが見えた……と後にはピッコロに言うことになる。
「一応直せるだけ直してみたわ。データは何処まで残ってるかわからないけど画面だけはきれいなものでしょ」
 どうやらヒビの入った画面のガラスを取り替えてくれたようだ。充電もされている。これを手に入れてから、こんなに手放したこともないな……と思うくらいには離れていた。懐かしいを通り越して漸く戻ってきたか……という気分である。
 もしかしたらもう何も残っていないかもしれないけれど……。恐る恐る画像データを確認する。
「……残ってます」
 誰一人選ぶことの出来なかった友人との画像はそこに残っていた。そのままスクロールを続けることしばし。
「良かった……これも残ってた……」
 母親が病気になる前に二人で旅行した時の画像である。
 元気な頃の母親は、どの画像を見ても慈愛の眼差しを向けてくれている。警察に行くのを躊躇ったのはどうしてもこの母親に会いたかったからだった。子供っぽい寂寥感を宥めてほしかった。既に報道などがなされてしまい、この後どうなるか不安な気持ちを沈めてほしかったのである。
 ついでにメールやメッセージなども念の為確認しておくかと通知欄の見てみると。
「……嗚呼、……」
 通知欄にはある一時点からたくさんのメッセージが残されていた。恐らくは、その時点で行方不明者として実名報道がされたのだろう。ざっと見ても心配するメッセージや安否を報せるよう書かれたメッセージなどが見て取れる。
 全てをかなぐり捨てて出てきたつもりになっていたが、にもまだこれだけの繋がりが残っていたのだ。
 涙は昨日全て出し尽くしたつもりだったのに、じわりと視界が歪みそうになる。流石にブルマもいるところでめそめそ泣くのは恥ずかしいので必死で我慢した。
 それでもピッコロには筒抜けだったのかもしれない。何故なら雰囲気が少し柔和になった気がしたからだ。
「もう頭の中読んでませんよね」
「当然だ。意識する必要もない」
 きっぱり言われてしまうとちょっと寂しいような気もするから我ながらゲンキンなことだ。……と、考えていたらピッコロが一瞬ニヤっと笑った。
 ……偶然よね?
「ピッコロさんが、人間じゃなくて良かったです」
「意図も意味も分からんが、最終的にその感想なのならお前は変わったやつだ」
「また会えますか?」
 奇しくもいつかの悟飯と似たようなことを言い出したに、今度こそピッコロはニヤリとした笑みを返す。
「意図的に俺を呼べば、気付きはするだろうな」
「やっぱり頭の中読んでません?」
「フッ……さぁな」